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(場所 : 兜町4-3)
明治6年、前年に制定された「国立銀行条例」に基づき、日本最初の銀行である「第一国立銀行」がここに創立されました。当時の建物は、三井組が建てた「三井組為替方」を譲り受けたもので、海運橋のたもとにそそり立つ壮麗な和洋折衷建築として有名だったそうです。(「三井組ハウス」と呼ばれていたそうです。)
もっとも、現在はみずほ銀行兜町支店の外壁に「わが国銀行発祥の地」という銘板がはめ込まれているだけになってしまっています。なお、当時、第一国立銀行頭取であった渋沢栄一邸は、この第一国立銀行の構内ともいうべきところにあったそうです(明治9年に転居)。
(場所 : 兜町3先、日本橋1-20先)
海運橋は、その昔、旧本材木町と茅場町の間に架かっていた橋です。橋の名は、江戸時代の頃は、橋の東詰めに海賊奉行の向井将監の屋敷があったことから、将監橋とか海賊橋と呼ばれていたそうですが、明治元年に縁起を担いで「海運橋」に改称されたそうです。そして、明治8年に西洋風のアーチ型の石橋に改装されたことで、有名になりました。しかし、関東大震災で痛んだことから、昭和2年に鉄橋に架け替えられました。その後、川が埋め立てられ、高速道路が作られたことから、橋そのものは取り除かれてしまい、現在のように石柱のみが残されているそうです。
(場所 : 兜町1-3先)
日本橋川には幾つかの橋が架かっていますが、その一つに鎧橋があります。鎧橋は明治5年にはじめて架けられ、その頃は橋の上を市電が走るなど趣もあったようです。現在の橋は昭和32年に架けられましたが、その後、川の上に高速道路が建設され、鎧橋自体は川と高速道路の間に位置することになってしまっています。
ところで、この地付近はその昔は入江が深く入り込んでいて、下総方面への渡し場となっていたそうです。永保年間(西暦1081~84年)、源義家が東征の際してこの渡しに来た時、急に暴風雨に遭い、渡しが使えなくなってしまったそうです。そこで、着ていた鎧を脱いで海神(龍神)に供え祈ったところ、暴風雨が収まり、渡ることができたそうです。その後、この渡しを「鎧の渡」と呼ぶようになったそうです。
東京証券取引所本館の北、道路を挟んで日本橋川の辺に小さな神社があります(日本橋兜町1-8)。これが証券界の守り神とされる兜神社です。
こちらの神社の御祭神は、主が商業の守護神の「倉稲魂命(うかのみたまのみこと=御稲荷さんの別名)」で、合祀されている神様は、大国主命(大黒様)と事代主命(恵比寿様)です。
ただ、神社と申しましてもさほど大きな神社ではなく、神主さんも常駐しているわけではありません。毎年4月1日に例大祭が執り行われますが、この日だけ近くの神社から神主さん達が出向いてきて儀式を執り行っています。
境内に兜岩と呼ばれる岩があります。この岩には以下にご紹介するような幾つかの由来があるのですが、いずれも確たる裏付けがあるわけではないようです。
(参考文献「兜神社世話人会編『商業の神様「兜神社」の由来』」他)
鎧の渡付近に平将門を祭った言われる鎧稲荷や源義家所縁の兜塚が、江戸時代の後期には近隣の鎮守、或いは、魚河岸へ出入りする漁民の信仰対象となっていたようです。
東京商社(三井物産(株)の前身にあたる会社のひとつです。)の移転に伴い、鎧稲荷と兜塚は、鎧の渡と兜橋の間に遷されました。この時に、兜塚をベースに源義家を御神霊として兜神社を創建しました。この兜神社は鎧稲荷と合併して、兜町の鎮守としての兜神社となりました。ちなみに、この年、三井組の三井八郎右衛門が「兜町」の名を東京府(当時)に願い出て許されたそうです。
この年、兜神社は、源義家の祭祀を止めて、大国主命と事代主命を合祀することにしました。新しい御祭神は、兜町一帯の土地を所有している三井家が信仰していた三囲(みめぐり)稲荷神社(墨田区向島2丁目にあります。)の境内摂社である福神社から分霊してもらったものです。
東京株式取引所(東京証券取引所の前身です。)の設立に伴い、取引所が兜神社の氏子総代となりました。このころから兜神社は、証券界の信仰を集めるようになったそうです。
兜神社は、日本橋川と楓川が分岐する現在の場所に移転し、その際に鉄筋コンクリート造りの社殿が造営されました。
高速道路が延長されるのに伴い、少し位置を移動して、鉄筋コンクリート造り銅板葺きの現在の立派な社殿に建て替えました。