株式会社東京証券取引所

明治11年(1878年)5月に東証の前身である東京株式取引所が設立されてから、2008年で130周年を迎えます。
明治から平成まで東証や日本の証券市場が歩んできた歴史を当時の写真と共にご紹介します。

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明治初期~東京株式取引所の誕生

1872年
(明治5年)
日本国内では公債の発行が盛んで、両替商が中心となり現在の人形町付近で公債の集団売買が活発に行われていました。その後、国立銀行条例の制定に伴い国立銀行が設立され、株式会社制度は銀行を中心に定着していき株式の売買が行われるようになりました。

当時、公債取引の比重が圧倒的に大きいものでしたが、明治10年以降は株式会社の設立が相次ぎ、取引の中心は公債から株式へと移行していきました。
1878年
(明治11年)
取引機関設立の機運が高まり、政府は5月4日株式取引所条例を制定し、東京実業界の有力者であった渋沢栄一、三井養之助らは、条例に基づく株式取引所の設立を出願、大蔵卿大隈重信の免許を受け、ここに株式会社組織の東京株式取引所が誕生、6月1日から営業を開始しました。


明治14年ころの東京株式取引所の様子
明治14年ころの鎧橋東側から東京株式取引所を望む


東京株式取引所創立証書1 東京株式取引所創立証書2 東京株式取引所創立証書3
東京株式取引所創立証書(明治11.5)


東京株式取引所沿革図解巻軸1 東京株式取引所沿革図解巻軸2
東京株式取引所沿革図解巻軸3 東京株式取引所沿革図解巻軸4
開設当初の売買の様子を絵で書き表したものが残っています(東京株式取引所沿革図解巻軸「そのころの兜街」昭和9年)。当時は長い縄に火をつけ立会開始、その火が消えたときが相場の終決で「火縄相場」と呼ばれていました。

明治中期~日清・日露戦争後の活況

1894年
(明治27年)
日清戦争勃発により株式市場は衝撃を受け株価は暴落となりますが、戦勝景気の高揚と企業勃興の再燃を反映して株式投機熱が高まり、市場は上昇の一途をたどります。
また、明治26年末の全国の取引所数は40か所だったのが明治30年には137か所に急増しますが、実際の需給がなく差金決済だけの不健全な投機的取引が横行し、取引所の整理と健全化が図られ明治36年には59か所に減りました。
1904年
(明治37年)
日露戦争が勃発するとその直後こそ株価は低下したものの相次ぐ戦果を受け株価は急騰し、勝利後は株式市場は興奮のルツボと化しました。

日露戦争後、明治40年ごろには当時人気のあった鉄道株や紡績株、工業株を中心に全面高となり株式ブームはピークに達しました。一方、東京株式取引所株(東株)も市場で人気を集めるようになり、明治41年以降は鉄道株に代わり市場をリードする花形株となり、上場廃止になる昭和18年まで東株主導型の市場が続きました。


東株の株券
東株の株券

大正~昭和初期 震災と世界恐慌

1920年
(大正9年)
第一次世界大戦(大正3~7)により、日本経済は輸出の急増や金融緩和を背景に急速な成長を示す一方で大正9年3月15日には大量の売り物から空前の大暴落となり2日間立会を停止するなど市場の混乱もみられました。

明治32年~大正12年ころの東京株式取引所の様子1 明治32年~大正12年ころの東京株式取引所の様子2
明治32年~大正12年ころの東京株式取引所の様子


火災の様子1 火災の様子2

火災の様子3
大正6年に取引所で火災があり、その様子の写真が残っています。火災後は事務室を移して仕事を行いました。
1923年
(大正12年)
9月1日の関東大震災では、東京株式取引所の建物も全焼し、兜町一帯が焼野原となった中、10月27日から焼け跡の天幕内で株式の現物取引を開始しました。その後、株式市場は回復し、兜町はすっかり近代的な街並みに生まれ変わりました。


関東大震災後の茅場町交差点付近
関東大震災後の茅場町交差点付近


震災後のバラックの事務所
震災後のバラックの事務所
1929年
(昭和4年)
10月24日ニューヨーク株式市場で株価が大暴落したことに端を発した世界大恐慌の波に見舞われ、わが国の経済は長期の不況に陥り、兜町も度重なる暴落のため、沈滞の度を深めました。


市場館の竣工
昭和2年、市場館の竣工


本館ドーム竣工
昭和6年、本館ドーム竣工

満州事変(昭和6)を機に、日本の経済政策は戦時体制に大きく転換され、証券市場も急速に統制色が濃くなってきました。このころ、既存の財閥や新興財閥が外部資金を導入するために公開した株式は取引所に上場され一般投資家の人気を集め、東株中心の投機市場から産業中心の投資市場へと変容の兆しを見せ始めました。
1943年
(昭和18年)
6月、全国11の株式取引所を統合して新たに営団組織「日本証券取引所」が設立されましたが、第二次世界大戦の戦局が悪化するにつれて、兜町も急速に活気を失っていきました。
1945年
(昭和20年)
3月10日の東京大空襲の打撃により市場は1週間の立会停止を余儀なくされました。8月に入ると原爆の投下やソ連の対日宣戦布告等により市場を取り巻く環境は最悪の状態になり、8月10日にはついに全市場の立会が停止されました。

戦後の混乱期~立会売買復活

1945年
(昭和20年)
戦後、GHQ(連合軍総司令部)は取引所の再開を禁止しましたが、兜町の一角では証券業者の半ば組織的な集団売買が開始され、兜町はいちはやく証券の町としてよみがえり取引所空白期における唯一の証券流通の場として大きな役割を果たしました。
1947年
(昭和22年)
取引所制度の民主的改革についての検討が進められ、日本証券取引所は解散しました。
翌年、財閥の解体等によって凍結された大量の株式が国民に放出されるとともに証券知識の普及を図るための全国的な証券民主化運動が行われ、4月、投資者保護を基本理念とする新しい証券取引法が制定されました。
1949年
(昭和24年)
4月1日に会員組織による取引所が東京、大阪、名古屋に設立され、5月16日から3証券取引所において3年9か月ぶりに売買立会が再開されました。


初立会の様子
初立会(昭和24年5月)の様子


旧本館ドーム付近の様子1 旧本館ドーム付近の様子2
終戦後、旧本館ドーム付近の様子(昭和26~30年ごろ)

市場のシステム化と株式ブーム

1961年
(昭和36年)
日本の経済は技術革新を軸とする高度成長期を迎え、株価は上昇の一途をたどり、中小企業も急速な成長を遂げます。昭和36年10月に東京・大阪・名古屋に市場第二部が開設されました。
1969年
(昭和44年)
東証株価指数(TOPIX)の算出を開始。
1971年
(昭和46年)
流通市場の機能強化が進められる中、東証では決済業務の合理化のための株券振替決済制度を導入。
1973年
(昭和48年)
証券市場の国際化に対応して外国株市場を開設。翌年には市場情報を迅速、正確、 公平に伝えるための相場報道システムが稼動しました。


昭和48年ごろの立会場と見学風景1 昭和48年ごろの立会場と見学風景2
昭和48年ごろの立会場と見学風景


立会場の冷房が故障したため氷を使用
昭和47年夏、立会場の冷房が故障したため氷を使用
1982年
(昭和57年)
国内で初めての株式売買システムが稼動、市場第二部銘柄のうち33銘柄について導入し、昭和60年には立会場銘柄を除く全銘柄に対象銘柄を拡大しました。
1985年
(昭和60年)
国債を中心とする公社債発行残高の急増、金融の国際化、金利の自由化の進展を背景に国内初の国債先物市場を開設しました。
その後、株式の価格変動に対するリスクヘッジの需要の高まりや国際資本市場と しての重要な機能を果たす役割を担うため、株価指数先物市場(昭和63年)及び 株価指数オプション市場(平成元年)を開設することになりました。
1987年
(昭和62年)
10月19日のブラックマンデーによる世界的な大暴落。東京市場は昭和63年以降急速な回復を見せ、景気の拡大と金融緩和を背景に平成元年末まで株式ブームが続き、バブル相場が形成されました。


新本館の竣工
昭和63年新本館の竣工


昭和63年ごろの株式売買立会
昭和63年ごろの株式売買立会

近年の東証

1991
(平成3年)
4月30日 午後の立会開始時間を午後1時から午後12時30分に繰り上げ。
10月9日 証券保管振替機構、株券保管振替業務を開始。
1999年
(平成11年)
4月30日 株券売買立会場の閉場。
11月11日 新興企業市場マザーズの開設。
2001年
(平成13年)
東京証券取引所、株式会社へ組織変更。


ARROWS竣工
平成12年 ARROWS竣工
2004年
(平成16年)
4月 証券投資への流れが大きくなる中、日本の証券教育の一環として、個人投資家や学校教育へ向けて「東証アカデミー」を開校しました。
2007年
(平成19年)
8月 株式会社東京証券取引所グループ設立。


株式会社東京証券取引所グループ設立