400年の時代を乗り越えてきた「堅実と変革」の経営とは

400年の時代を乗り越えてきた「堅実と変革」の経営とは

綿半ホールディングス株式会社
野原 莞爾

機を逃さず、変革を恐れない

野原莞爾(綿半ホールディングス株式会社)インタビュー写真

綿半ホールディングスの創業は1598年に遡る。初代の綿屋仁兵衛氏が長野県飯田市で綿の商いを始めてから400年余り。2003年にホールディングス化を図り、2014年12月に東京証券取引所第二部に上場、2015年12月には一部に指定された。
400有余年という歴史と近年における大きな改革について、代表取締役会長の野原莞爾さんにお話をうかがった。

 綿半ホールディングスは、グループ経営理念に「堅実経営」、事業理念に「変革の精神」を掲げている。“堅実”と“変革”。一見すると相反する言葉のように思えるが…と聞いてみると、「私どもが掲げている堅実経営は株主、取引先、従業員、そして社会の皆様からの期待に応えていくことです」と答えてくれた。“堅実”だからといって、石橋を叩いて渡るような経営ではないということだ。ステークホルダーが期待する収益性や成長性の向上のためには、当然ながら世の中の変化に合わせた柔軟な“変革”が必要だ。つまり「確かな経営のために、つねに変革がある」ということなのだ。

 これは、同社の歩みを見てもよくわかる。
 創業者が綿の商いを始めたのは戦国時代末期。それに続く江戸時代の260余年は、その綿の商いを中心に行ってきた。明治になり、12代目の野原半三郎数吉氏が綿の事業をのれん分けをして譲り渡し、次の時代を作るであろう鉄鋼、セメントなどの事業に乗り出した。江戸時代末期から農機具などの金物を扱っていたことが礎になっている。

「機を捉えた非常に大きな改革でした。もし明治になっても綿にしがみついていたら、今の綿半はなかったでしょう。そういう意味で数吉翁はわが社の中興の祖と言えます。彼の命日が1月7日なのですが、これにちなんで以前は毎月7日に『七日会』という経営検討会議を行っていました。いまも『七日だより』という社内報の名称に名残があります」

 もう一つの大きな変革は、野原さんの実父である14代目の野原達也氏のときだと言う。

「第二次世界大戦後の復興期、建設資材の取り扱いを始めたのですが、これが綿半が建設事業に取り組むきっかけになりました。国土復興という時代の要請を捉えた変革であったと思います。こうして受け継がれているのが変革の精神、綿半のDNAなんです」

 たとえば、綿半ホールディングスが展開する3つの事業のうちの一つ、スーパーセンター事業にもその精神が顕れている。

「もともと農機具や家庭用器物を販売するという小売業を行っていたわけですが、それが時代に合わせて発展し、さらにはホームセンターとして大規模化しました。長野県内の出店周辺地域で生鮮食品を取り扱う小売業が閉鎖したことをきっかけに、生鮮食品に携わってきた人材を確保して数年かけて準備をし、生鮮食品も販売するホームセンターとしてスーパーセンター化を図ったのです」

 長野県内では唯一となるこの業態を立ち上げたのは2007年のことだ。

「時代に合わせて、周囲の求めに合わせて、形を変える。それが期待に応えるということです。つねに、現状に満足しないことが大事なんですよ」

ホールディングス化で総合力を発揮

野原莞爾(綿半ホールディングス株式会社)インタビュー写真

 野原さんが手がけたもっとも大きな改革は、ホールディングス化だ。そしてホールディングス化は、株式上場への布石でもあった。

 「綿半グループは、第二次世界大戦後の1949年に綿半銅鉄金物店を設立し、株式会社に改組しました。そこで採用されたのが『従業員即株主制度』です。戦後復興の大きな波を乗り越えるための人財の確保が必要だったこともあり、また会社を社員全員で盛り上げ、かつ盛り立てていこうということで取り入れられた制度です」

 その気運は社内に浸透、高度成長の時代の波に乗った。グループ内に複数の会社が誕生しても保たれ、個々の会社が個性を発揮し、資金調達を別々に行うなど、高い自由度を保っていた。しかしその後、グループ会社間で株式を持ちあうなど、グループ内各社の資本関係が複雑化してしまった。

 「私が38歳くらいでしたか、副社長を務めていたときですが、このままではいけないと危機感を抱きました。会社のためにも、定年などで退職していく株主でもある社員のためにも、上場して市場に評価をゆだねるほうが合理的だと考えたのです」

 44歳で社長に就任すると、約20社のグループ会社を野原産業グループと綿半鋼機グループに分け、徐々に株式の整理をし、統廃合をしていった。さらに「今後はグループの総合力を発揮することが大切だ」と考えてホールディングス化を目指す。1997年に純粋持株会社制度が解禁されたことを受け、数年間の準備を経て2003年に実現した。

 その後もグループの総合力を発揮するための改革には余念がない。たとえば、建設事業。グループ内に躯体をつくる建設鉄骨の事業や内外装の事業を行う会社があるが別会社だった。いわばそれぞれに特化した技能を持って仕事を請け負う専門工事業だ。それを一つにする事業再編が行われた。

 「まず2012年に内装事業と外装事業を一つにして、翌年に土木緑化事業も一緒にしました。そして2016年4月、躯体を手がける会社もまとめて、綿半ソリューションズが誕生したというわけです。狙いは、建設事業のいわゆる“コングロマリット”化です。ビルなどを建設する場合は35〜36業種が関わるのですが、これで綿半グループは基礎工事と設備工事以外のすべてにワンストップで関わることができるようになりました」

 事業再編を行うメリットは各社の常識を覆し、成長を促すことにもある。

 「どの会社もそれぞれに歴史や商習慣がありますから、自分の事業に因ったものの考え方をしがちです。たとえば単位一つとっても、土木事業における単位はメートル、建築事業はミリ、躯体を扱う事業はトンです。こうした単位というのは、無意識のうちに経営感覚と密接に結びついているんですよ」

 事業再編により、新しい気付き、新しい尺度を与える可能性がある。そして、事業再編の成功は、「1+1」が単に2になるだけに留まらない。

「技術的な部分では、お互いに補完し合うことでマルチな部隊ができます。そして生産管理という部分では、各社に分散していたノウハウを結集し蓄積することで、グループ内での財産として残るようなデータベース化も可能です」

野原莞爾(綿半ホールディングス株式会社)インタビュー写真

“2人の父”の指南

野原莞爾(綿半ホールディングス株式会社)インタビュー写真

 14代目である野原さんの父、野原達也氏は60代で社長を退いた。当時の大番頭的な役割を務めていた秋田茂男氏が社長となるのだが、秋田氏は野原さんの経営指南役でもあったという。

「秋田は経営面で私のことを徹底的にしごいてくれました。態度で示してくれたのは、従業員一人ひとりと心が通じるような経営を心掛けなくてはいけないということでした。そしてよく言い聞かされたのは、“眼光紙背に徹す”ということ。“眼の光が紙の裏まで届くほどに熟慮しなさい”と言われました。この言葉は今では私の座右の銘になっています。
 加えて私は、経営者はつねに冷静でなければならないと思っています。人事面を含め、懇切に取り組むことが必要だろうと考えています。ですから周囲は、ときにまどろっこしいと思うかもしれませんね」

 しかし今の時代、スピードを求められることもあるのではないだろうか。

「確かに実業の現場では、迅速な判断が必要な場面もあります。でも、企業としていかに存続していくか、いかに社会の役に立つのかという、経営の視点では熟慮が必要だと思います」

 一方、父の野原達也氏には、「評価は自分で下すものではなく、他人がしてくれるもの」ということを教わった。「だからつねに謙虚でいなさい」と。
「父は大阪修行時代から日々のいろいろな出来事とそれに対する想いを書き綴っていた「ああも思い、こうも思い綴り」という記録帳を、私が30歳になるころ見せてくれました。人の叱り方などについても綴られていましてね、経営について考えさせられる内容でもありました。私も父を真似て、日々の思いを綴るようになりました。自分を見つめ直しながら進む習慣づけができたと思います。父に感謝ですね」

社会の期待に貢献で応える

野原莞爾(綿半ホールディングス株式会社)インタビュー写真

 綿半グループは、早い時期から社会貢献に力を入れてきたが、これは野原達也氏の強い想いからスタートしている。

 「父は、叔父たちが名だたる大学へ進み実業界に羽ばたいて行く姿を見ていましたので、自分も進学への意欲が高かったようです。しかし事情あって商業高校へ進学後、大阪の金物問屋に就職することになりました。修業を終えて戻った父は1953年に『竜峡育英会』という奨学金制度をつくり、1964年には『菁莪寮』をつくりました。学びたい子どもたちを支えたいという想いだったのだと思います」

 「竜峡育英会」は経済的な理由で進学困難な長野県飯田市周辺の生徒や学生に奨学金を貸与する制度で、現在も継続されている。また「菁莪寮」は、地の利の悪さや金銭的な面から進学を諦めざるを得ない子に対し、寮を設け、共同生活や衣食住のサポート、学校で必要な諸経費等の援助を行った。
 学監を務めていた人が高齢化したことと時代の流れなどから、「菁莪寮」の制度はなくなったが、代わりに綿半創業380周年記念事業の一環として設立された、社会福祉法人綿半野原積善会が老人ホームやデイサービスセンターを開設し、運営。野原さんは同会の監事を務めている。

 「今、“福祉”というと、企業ではその対象が従業員と家族くらいに限られています。しかし、私は高齢化への対策は、国の制度に頼るだけでなく、企業が自主的に参画していくべきであるし、それができる社会にならなければ、日本の社会そのものが崩壊するのではないかという危機感さえ持っています。社会福祉に参画する企業がきちんと評価されるようになるといいと思います」

 「信頼に応える」と謳う企業は多いが、綿半は「信頼に対して“貢献”を持って応える」と経営理念を掲げている。信頼というものに対する真剣度、相手に何かを返そうという心持ちが違うのだ。これが400年という時代を乗り越えてきた強さの秘訣かもしれない。

未来を見据え、世界へ発信

野原莞爾(綿半ホールディングス株式会社)インタビュー写真

 2014年、東京・銀座に、世界の暮らしを表現するコラボレーション空間と銘打った「綿半銀座ギャラリー」をオープン。この「綿半銀座ギャラリー」ではガーデンデザイナーの視点で設計した新しい住空間が体験できる。また、さまざまな分野で活躍する人を紹介するギャラリーでもある。

 「このギャラリーには土を入れており、実際に植物が育っています。植物が成長する環境は人間にとっても心地よい環境なんです。私自身、このギャラリーを通じて国内外のいろいろな方々とお会いする機会があり、とても勉強になります。このギャラリーには多くの方に来ていただき、さまざまな角度から“綿半”を見て、その想いを発信していただきたいと思っています。実際、オープニングパーティのときは、料理を工夫して庭に見立てて提供したのですが、これに驚いた人たちが写真を撮ってSNSなどで発信してくれました」

 綿半ホールディングスは長野県飯田市が発祥。飯田市といえば、2027年開業予定のリニアモーターカー事業が気になるところだ。企業人としてだけでなく、社団法人信州・長野県観光協会の理事長という顔ももつ野原さんの胸中はいかがだろうか。

 「リニアモーターカーは、長野県内では飯田市に停まる予定です。リニアモーターカーが走ったとき、飯田市をどのように世界に発信するか、そのための展開を、まさにいま手がけているところです」
 ここでも登場するのは世界に向けてのまなざしだった。

 さて、400年以上続く会社の15代目の趣味は、なんとドラム。

 「学生時代からカントリーウエスタンが好きで。当時はギターを弾いていました。いまはもっぱらドラムで、ジャズやボサノバもやります。仲間がライブハウスで演奏するときに一緒ステージに上がることも。ほとんど自己流で演奏してきたので、ちゃんと習わないとなと思って。こんど本格的に習い始めることにしたんです。70の手習いですね」

 「人を惹きつける経営をしなければならない」と語る野原さん。いちばん大切なものは何ですか? の質問にも「人です」と即答された。綿半グループの成長のカギは、きっとそこにあるに違いない。ジャズセッションのように心を通わせて、楽しみながら仲間を増やしていくのだろう。

(文=佐藤紀子 写真=戸塚博之)2016/03/16

プロフィール

野原 莞爾
綿半ホールディングス株式会社 代表取締役会長
1944 年
中国・上海に生まれる
1966 年
慶応義塾大学商学部卒業 ㈱綿半銅鉄金物店(現綿半ホールディングス㈱)に入社
1988 年
代表取締役社長に就任
2015 年
代表取締役会長に就任、現在に至る
現在、社会福祉法人綿半野原積善会 監事、長野県総合計画審議会委員、社団法人信州・長野県観光協会 理事長、社団法人長野県経営者協会 副会長・観光委員長等の職を兼任。

会社概要

ロゴマーク
綿半ホールディングス株式会社
  • コード:3199
  • 業種:小売業
  • 上場日:2014/12/24