上場会社トップインタビュー「創」

井村屋グループ株式会社
  • コード:2209
  • 業種:食料品
  • 上場日:1997/11/11
浅田 剛夫(井村屋グループ株式会社)

アイデアとチャレンジ精神が井村屋の原点

浅田 剛夫(井村屋グループ株式会社)インタビュー写真

 2025年に大阪万博が開催される。奇しくも現在井村屋グループ株式会社代表取締役会長の浅田剛夫さん(以下浅田さん)が井村屋製菓株式会社(入社当時の社名、以下表記は「井村屋」)に入社するきっかけは、1970年の大阪万博。

 井村屋はアメリカの人気アイスクリームブランドと提携し、万博会場で販売を行うことになっていた。既に別の食品会社の若手社員だった浅田さんだが、海外ブランドとの提携を進める井村屋のチャレンジ精神にひかれた。前職上司にも「世界に舞台を広げるチャンスだ」と背中を押され、転職を決意した。

 井村屋のチャレンジ精神は、創業時から受け継がれるDNAでもある。明治元年生まれの井村和蔵氏が29歳の時、伊勢伝統の山田膳(春慶塗の漆器)を使用してようかんづくりを始め、切り売りもできる「山田膳流しようかん」とし、地域内(三重県)で高い評価を得たのが、創業の原点である。

 浅田さんは振り返る。「贈答用のようかんを製造販売する店は、当時も多くありましたが、入り用分を切ってテイクアウトできる形式を編み出したのは独創的だったと思います。和蔵氏は、商品を企画販売する「マーケター」としての才能に優れ、それは、長男の二郎氏にも受け継がれました。和蔵氏の信念は人の真似をしないこと。それを貫くためには、新しいものを創り、独自のものに挑戦する。この教えは、二郎氏の経営方針を表した『特色経営』という言葉で、今なお社内に生き続けています」

「二郎氏が社長になったのは1933年。その後、戦争をはさんだ激動の時代を生き抜くためには、販売力が必要でした。戦中、彼は皇居の近衛兵として勤務し、物不足にあえいだ戦後は、配給品の小麦を各家庭から預かり、パンに加工して収入を得た。いわゆる委託製造(賃加工)です。限られた条件の中で双方が喜ぶことができる方法で実によく考えられていました」

「高級品の大衆化」で誰でも手軽にようかんを

浅田 剛夫(井村屋グループ株式会社)インタビュー写真

 株式会社井村屋設立は、1947年4月。終戦から2年。まだ物資は十分でなかったが、その翌年にはビスケット、更にはキャラメルの製造を始める。ガムも作った。
「和菓子一本では満足できない前向きな二代目の性格に、社員は随分困惑しつつ影響を受けたのではないか」と浅田さんは笑う。

 再びようかんの販売を始めたのは、1951年。井村屋は、百貨店販売から台頭し始めたスーパーマーケットでの販売に主力をおき、贈答用で高級品だったようかんの「大衆化」を推し進めたのだ。多くの人々が手軽に食べられるように工夫し、低価格で販売したことが評価された。

 水ようかんを缶に入れ、日持ちする商品に仕立てたのも井村屋が先駆者。そもそも水ようかんを殺菌するという発想すらない時代に、多くの人に安心して食べてもらうためにレトルト殺菌の技術開発から売り方まで次々と革新を図った。

「この延長線上に現在、販売している『スポーツようかん』、『えいようかん』があります。あくまで原点であるようかんに生きながら、時代の要請に対応していく。『えいようかん』は5年間長期保存できる災害備品対応のものです。創業からの変わらぬチャレンジ精神がこれら新しい需要に対応した商品となっています」

技術とマーケティングの融合でロングセラーを開発

浅田 剛夫(井村屋グループ株式会社)インタビュー写真

 続く転換点は1961年の名古屋証券取引所(名証)上場。浅田さんは、「戦前から会社をつないできた二郎氏の上場への思いは、会社を社会の公器としてより多くの人に知ってもらい、ファンを増やしたい一心の船出だったのではないか」と言う。

「その効果で最も大きかったのは、地元三重大学の卒業生が技術開発の担当として複数入社されたことです。経営者のアイデアを技術的に受け入れ、形にできる人材を採用できたわけです」

「また、販売分野でも大学卒業生が入社し、変化に対応できる販売担当者に育ちました。今では看板商品のひとつである『肉まん・あんまん』を生み、育てたのは当時の社員なのです。冬場は小売店のアイスクリームストッカーが空くことを残念に思い、会社が考案したのは、あんまんをこのストッカーを活用し冷凍状態で販売することでした。

 しかし、それでは売れなかった。現在のようにスチーマー(蒸し器)で蒸して売るというのは営業からの提案です。実際に高校生が学校帰りに皆飛びつきました。消費者ニーズがあれば、販売に結びつく小売店の多くが商品を希望します。蒸し器を作ったのは、良い形で什器の技術とセールスが融合し、今に続く商品を生み出したわけです」

 当時生まれたロングセラーには『あずきバー』もある。新カテゴリーとしてアイスクリーム分野に関心を示したものの、定番のバニラアイスでは先行メーカーに勝てない。開発者が悩むなか、「うちには“あずき”があるだろう」と言ったのは二郎氏。

 開発者はこの言葉に救われた。社員の提案を止めず、壁にぶつかったらアイデアを出し、魔法の言葉をかける。二郎氏は、晩年まで商品研究を怠ることはなかったという。

浅田 剛夫(井村屋グループ株式会社)インタビュー写真

顧客視点を大切に、絶えず変革を目指す経営

浅田 剛夫(井村屋グループ株式会社)インタビュー写真

 井村屋は、二郎氏の発案で、1973年、外食事業にも進出する。

 浅田さんは、アメリカのレストランブランドのライセンス事業である『アンナミラーズ』の黎明期から15店舗出店までを支え、お客様を通じた現場感覚を養った。特にチェーン展開のノウハウが日本全体に根付いていない中で、店を立ち上げていくことは容易ではなかった。有能な店長の数を揃えるためには、まずは人づくり、つまり教育が肝だと学んだ。

「ところがアンナミラーズが軌道に乗った後、44歳の時、東京支店長に異動になりました。転機を不安に感じる一方で、長年お客様と直接、接する部門にいたという自負もありました。お客様の直接の声は、鮮度ある情報としてとても貴重なもので、大きな意味を持つものです。収益への貢献も重要ですが、お客様の評価は、井村屋という企業全体の評価にもつながります」

 2003年、浅田さんは、代表取締役社長に就任する。
 
「新しい事業や商品への挑戦、会社の仕組みの改革、論理的思考の充実で基礎を見直すなど、課題は山積でした。中でも海外事業には積極的に取り組みました。初めて北京に拠点を持ったのは社長就任前ですが、就任後にはアメリカにも進出しています。さらにこの2ヶ国をコアに輸出事業の強化も図っています。収益性もさることながら、世界中のどこにでも井村屋の商品があるという事実をつくることが大事。海外の人々に井村屋の商品のおいしさを楽しんでもらいたい。それが評価として国内流通でもプラスになり、ステークホルダーの皆様の評価につながるからです」

 浅田さんは社長に就任してからも脈々と受け継がれてきた『特色経営』とともに、二郎氏の『不易流行』という言葉も大切にしている。守るべき伝統はしっかり守りながら、革新には勇気を持って取り組む。先の見通せない現代において、大きな挑戦が土台を揺るがすこともある。しかし今は昔と違い、1人が意思決定する時代ではない。組織の中で論理的に考え、第三者の視点を入れ、結論を導き出す時代だと考えている。

「色々な取組みのプロセスに第三者評価を受けられるのは刺激的です。問題であるポイントを指摘されるが、そこを改善することで会社は進化し変わってきます」と浅田さんは、語る。

事業を広め、より多くの個人株主のファンをつくりたい

浅田 剛夫(井村屋グループ株式会社)インタビュー写真

 井村屋が東証二部に上場したのは、1997年のこと。理由は一地方企業から脱却し、さらに知名度や信頼、情報収集の範囲を広げたいという考えからだ。設備投資の面でも、名証上場時から産業機械の調達や新たな生産技術への取り組みは積極的に行えるようになってきたが、東証への上場でさらにエンジンがかかった。機械メーカーとの技術提携や調達がより容易になり、商品の幅や生産量など質・量、販路とともに成長の手助けになっている。

 井村屋は、持株会社制に移行し、井村屋グループ株式会社を2010年に設立した。しかしこの持株会社は各事業会社を管理する立場だけでなく、「井村屋グループ」として、それぞれの事業会社のハブとして存在し、グループ全体の企業価値向上に努めることとしている。

 具体的には事業会社に対する3つのS「サービス」「サポート」「サジェッション」を行い、年1回事業会社からこの3つを行えているのかの評価も受けている。

 今ではすっかりファミリーカンパニーから脱却を図ったように見えるが、井村屋の名前が残っていることについて、浅田さんはこう話す。

「現在は創業家の持ち株は少数です。持株会社を設立し、組織改編を行った際も伝統を受け継ぐという意味で井村の名は残すことになりました。しかし、実質的には経営に影響力を行使することはありません。まさに『不易流行』を実行した変化です」

 創業120年、会社設立70周年の2017年、井村屋は東証一部に上場を果たす。

「より多くの人に井村屋を知ってもらうチャンスだと思いました。中核事業の井村屋はコンシューマービジネスなので、個人株主のファンをつくることに思いを強く持っています。一部上場と同時にエクイティファイナンスで大きな投資もいただきました。それをどう活用しどう還元していくか、常に問いかけています。まずはAZUKI・FACTORYという新工場を稼働させ、新ブランド商品の投入で利益の創出を図り、ステークホルダーの皆様の期待に応えたいと思います」

 東証一部企業になったことでこれまで皆無だった海外からの投資も少しづつ出てきたという。

数や形ではなく質を追求する「ESG」

浅田 剛夫(井村屋グループ株式会社)インタビュー写真

 ESG経営への取り組みも強化していく。「エコロジカルはエコノミカル」だと考え、環境に取り組むことはコストの上乗せではなく、経済効果にもつながる。実際にボイラー燃料をガスと併用し、燃料を木製チップに替えることで、電気やガスの使用量を極小化させることに成功している。

 本社のある津市郊外に「アズキキングの森」を作ったのもESGの一環だ。森を整備することで、川にプランクトンの豊富な水が流れ、伊勢の海に貢献できる。

「従業員にその意識を持ってもらうことが最も重要と考えています。この森の活動に参加したいと多くの人が手を上げてくれた。意識改革が活動の普遍化につながります。テーマがあっても動かなければ何も生み出せません」

 ガバナンスについても話を聞いた。

「ガバナンスは難しいですね。現代はグローバリズムが歪曲して捉えられている部分があると感じます。日本的経営にも良いところが随所にあることを考え合わさなければなりません。ガバナンスは組織の問題であると同時に経営者の資質や心を問うものです。日本人が持つ『先義後利』『忘己利他』の精神を備えた経営者がいることが大切で、それが商品の品質や経営品質につながります。その上で第三者視点を入れていく。これは制度をつくって終わりではありません」
 制度はつくるが、あくまで質が大切と一貫している。

 
 女性活躍でも管理職比率などの数字ではなく、個々の能力を評価した適材適所として考える方針でいる。その下地をつくるための育児休暇制度の充実や企業内託児所の設置には力を入れている。その恩恵か夫婦そろって井村屋で働く社員が多いというが、まだ育児家事は女性の仕事という位置づけであることは否めない。男性が育児にどうかかわっていくか、会社としても考えていくことが今後の課題と考えている。

 浅田さんは会長である今も社業に忙しい毎日だが、合間を縫ってご夫婦で好きな絵画を観に行ったり、コンサートに出かけるのが楽しみだそう。読書家でもあり、最近は歴史書を読み解く。「生涯現役ですか」との質問ははぐらかされたが、経営者として、新しい時代に向け、職責を果たしていく気持ちに変わりはないようだ。

(文=吉田香 写真=井田公雄 編集責任=上場推進部"創"編集チーム)2018/12/17

プロフィール

浅田 剛夫(井村屋グループ株式会社)
浅田 剛夫
井村屋グループ株式会社 代表取締役会長
1942 年
三重県津市生まれ
1965 年
中央大学経済学部卒業
1970 年
イカリソース株式会社を経て、井村屋製菓株式会社入社
2003 年
同社 代表取締役社長就任
2010 年
持株会社に移行した井村屋グループ株式会社代表取締役社長に就任
2013 年
代表取締役会長に就任
2019 年
第17回渋沢栄一賞受賞

会社概要

井村屋グループ株式会社
井村屋グループ株式会社
  • コード:2209
  • 業種:食料品
  • 上場日:1997/11/11