上場会社トップインタビュー「創」

ヤマシンフィルタ株式会社
  • コード:6240
  • 業種:機械
  • 上場日:2014/10/08
山崎 敦彦(ヤマシンフィルタ株式会社)

高度成長期に下請から開発力問われるメーカに脱却

山崎 敦彦(ヤマシンフィルタ株式会社)インタビュー写真

 日本には世界トップシェアを誇る製品があまたある。その多くはサプライチェーンに必要不可欠な部品や部材だが、生活の中では"目に見えない逸品"だ。ヤマシンフィルタ株式会社の基幹製品である建設機械用油圧フィルタもそのひとつ。シリンダー等の油圧機器を保護するフィルタの搭載は、過酷な環境で稼働する建設機械の故障を最小限にするにはなくてはならない。

 ヤマシンフィルタ株式会社の前身は、代表取締役社長 山崎敦彦さんの父・正彦さんが、戦後間もない1948年に清酒用濾布の製造を始めたことから。

「山信工業所として、会社を立ち上げ、間もなく時代は高度成長期です。これからは自動車の時代だ、オイルフィルタに需要があると転向したのが、現在につながっています。ただ、今のようなカートリッジではなく糸巻きのような形状でした。最初から有名な自動車メーカが直接買ってくれるわけがなく、戦前からあったフィルタメーカの下請からのスタートでした」と山崎さん。
 
 下請とはいえ、高度成長期という時代背景もあいまって、売上は順調に伸び、社員も徐々に増えてきた。ところが正彦さんは突然、当時売上の8割を占めていた自動車用フィルタの下請仕事をやめると言い出した。

「下請では収益に限界がある、それがひとつ目の理由。ふたつ目の理由である創意工夫ができない、自由な開発ができないということが、父の思いの中では大きかったのではないでしょうか」
 そして当時、2割の売上しかなかった建機用油圧フィルタに活路を見出すことになる。

作家に憧れた青年時代から一転家業へ

山崎 敦彦(ヤマシンフィルタ株式会社)インタビュー写真

 8割の売上を捨てたことで辞めていく役職員もいるなか、自らの意思を通し、父の正彦さんが苦労を重ねていた時期。幼少の山崎さんのなかでの父親像は、ペノール樹脂(濾紙の原料の一部)と油が混じり合った匂いとともに思い出される。それほど工場と父である正彦さんは切っても切り離せない存在だったが、当時の正彦さんから、家業を継いでほしいというプレッシャーはかけられなかったという。

 そして山崎さん自身は成長に伴い、作家になることを夢見ていたと話す。

「高校生のときに、芥川賞作家の柴田翔さんが書いた『十年の後』や『されどわれらが日々』を読んで、彼に憧れてね。ちょうど学生運動の時代の青年像を描いた作品に共感し、自分も純文学の世界に行きたいと思っていました。父は露骨には反対しなかったのですが、母からは猛反対されました。長男は家業を継いで当たり前という思いが強かったのでしょう」
 
 しかし大学受験時に山崎さん自身が会社を継ぐことを意識しはじめた。大学では「紙」のことを深く学び、大学卒業後は家業の山信工業株式会社(現 ヤマシンフィルタ株式会社)の取締役に就任する。同時に建設機械の仕組みを学ぶために株式会社小松製作所に入社した。研修期間を経てすぐに生産管理部門に配属され、製造業のアウトラインを経験できたことは、今に生きている。

「分厚い生産方式が書かれた書類を渡され、読んでおけと。1週間後、具体的な業務の指示がありました。ブルドーザーや油圧ショベルなど混合生産の工場のラインの編成をつくるという新人にしては重責です。そんな簡単にはできません。実際には1000台生産すべきなのに1万台分の部品を発注してしまい、訂正通知を書くために同僚を総動員したこともありました」

 2年という短い期間ではあったが貴重な経験をさせてもらった小松製作所を退職し、その後は家業に専念する。

創業の精神に立ち返り、常に顧客と社会のために

山崎 敦彦(ヤマシンフィルタ株式会社)インタビュー写真

 当時会社は、すでに建機用油圧フィルタに軸足を移していた。時代背景はプラザ合意を受けて円高が進み、製造業のグローバル化の波には逆らえない。韓国や台湾製の安価な競合製品の追い上げもある。

 1989年、数年間にわたり法人税が無税で生産設備も安く購入できたフィリピン・セブ島に、現地法人を設立したのが同社の海外生産の最初の一歩だった。

 グローバル化は顧客ニーズに沿ったものだが、当時は売上規模で50億円に満たず、やむを得なくという状況でもあった。それでもセブ島に工場を持ったことは、会社の成長にとって大きな弾みになったという。

「工場はその後、タイのアユタヤにも出しました。セブ島とアユタヤが量産工場、もともと佐賀にあった工場が少量多品種対応と棲み分けました」

 また、建機の生産ラインに必要なフィルタおよび補給部品としてアフターマーケットが重要と、その後欧米、中国に販売会社を設立している。顧客である建機メーカのグローバル展開が進展するなか、サービス体制として必要不可欠との判断からだ。

 一方ではニッチな分野でもあり、ある種類のフィルタを「明日2個用意してほしい」といった注文が入ってくることがある。少量多品種が同社の売りでもある。

「そういうフィルタに限って年に数個しか出ないレアな製品なんですよ。本来、工場は自分たちが組んだ生産計画どおりに仕事をしたい。営業は早く出してくれという。そういうときは企業理念である『仕濾過事』(ろかじにつかふる)に立ち返ります。自分達の都合を抑えてお客さまの役に立つのが仕事なのだから、生産ラインが乱れてもいいじゃないかと」

『仕濾過事』は先代が考案した。「フィルタビジネスで社会のお役に立つ」という意味で、現在もその精神を脈々と受け継いでいる。

 建設機械は4年に1度モデルチェンジの機会がある。これに対応するのは並大抵ではなく、チャンスにもピンチにもなり得るという。世界には競合がひしめく。4年に1度は建機メーカにとっては、ブランドスイッチの機会でもある。

「次のモデルはヤマシンでいくと言われることはハッピーなことですが、逆の結果を生むこともあります。新たな取引先の新モデルへのカスタマイズには失敗できないですし、従来の取引先の次のモデルに採用いただく仕組みも同時につくらないといけない。まさに『仕濾過事』の精神で、時代の変化に合わせてお客さまのために自らより良いフィルタを提案していくことを毎回やっています」

「フィルタで一番大事なものは、濾材です。濾材の社内開発・生産には、こだわりを持っています。世界のフィルタメーカで濾材の開発を自社で行う会社は非常に少ないのが現状です。安い濾材を使って組み立てたほうがコストは抑えられますが、それではフィルタ専門メーカじゃない。顧客ニーズに合わせて濾材から開発してこそ本物だと信じています」

山崎 敦彦(ヤマシンフィルタ株式会社)インタビュー写真

事業継続性を主眼に上場、システムで動く組織に成長

山崎 敦彦(ヤマシンフィルタ株式会社)インタビュー写真

 国内外での事業を精力的に推進し、1990年には代表取締役社長に就任。2005年に山信工業から現在の社名に変更する。これは中国への進出後に、「山信」は中国語で「シャンシン」と読むことを知ったのがきっかけ。いくら正しても埒が明かず、いっそカタカナにしよう、更には「工業」では何を作っているのかわからないから「フィルタ」を付けようと考えた。

 その後も事業の成長をけん引していくが、株式上場については、東証市場第二部上場が2014年、市場第一部指定が2016年と、ひととおり海外進出を果たし、現在の形をつくった後のことだ。

「上場には時間がかかりましたね。最初は2005年にジャスダックを目指しましたが、2008年にリーマンショックで業績が一時落ち込み見送りました。幸いV字回復を遂げ、2度目の挑戦は東証市場第二部に照準を合わせましたが、2011年のタイの大洪水でアユタヤ工場が操業停止になり、上場どころではなくなったのです。2014年の上場実現はまさに3度目の正直です。3度目の挑戦となると社内にはまたやるのかとあきれて辞めていった人もいるくらいでした」

 それでもチームで成し遂げた。すでに海外進出に向けた投資は一段落していたにもかかわらず、苦労と挫折を繰り返して上場を目指した理由を聞いた。

「上場を目指したのは、社長自らが世界中を駆け回るような中小企業経営に限界を感じたことが大きいです。いつまでも若くないわけで、体力的にも厳しい。システムで動かせる組織にしないと長続きしないと気づきましてね。継続企業の観点から上場が必要と考えた訳です。上場の際には資本政策として、次世代への事業承継も組み入れています」
 
事業承継の話になると、同社の性質上外せない質問がある。同族経営に対する考えを聞いた。

「以前は同族経営には悪いイメージを持たれることがありましたが、最近では意思決定のスピード感があるとされて見直されています。むろん一長一短ありますが、会社としてしっかり利益を出していれば、このスタイルも悪くないと思います。創業家による経営体制の継続か、プロのCEOをお招きするか、それは次世代に任せたい考えです」

 上場を果たし、更には一部上場企業にもなり、社会的な信用が増したのを感じるという。社員の意識、リクルート学生の反応も変化してきた。一方で経営の責任の重さを実感している。

「株価は落ちることもあります。ネットで投資家の反応をみると、お怒りも理解できます。私としては事業計画を粛々と実行し、業績を上げていくことで投資家への責任を果たしていくしかないと覚悟を持っています」

 IRには力を入れている。IRフェアなどのイベントには、積極的に参加し、落語で笑いを入れながら経営戦略や自社製品の特徴を伝える試みを行っている。落語をとり入れたのは、一般に分かりにくいBtoBビジネスの内容を、個人投資家に多いシニア層にも分かりやすく伝え、親しみを持ってもらいたいという思いから。同時にウェブサイトや取材対応を通じての発信に尽力していくことも考えている。

主軸のイノベーションを起点に事業領域を拡大

山崎 敦彦(ヤマシンフィルタ株式会社)インタビュー写真

 今後の事業の成長を見据え、今注力している技術開発はIoTの技術とフィルタ製品の融合である。

 現在、2種類のセンサーを開発している。ひとつは製品や現場の環境や使い方によって異なるフィルタの交換時期を目詰まりから察知し、自動的に知らせる機能を持つ「ライフセンサー」、もうひとつは「清浄度センサー」だ。

 機械にとって油圧は人間にとっての血液で、人が病院で血液検査をやるように、油の汚染度などの状態を測る。両方の技術を組み合わせることで故障予知が可能になる。

 現場に故障に気づいてからメンテナンス要員が向かうのではなく、先回りできれば現場を無用に止めず生産性向上に貢献できる。センシング技術を持つ企業と提携し、ヤマシンフィルタのパテントで搭載を進め、普及を図っている。
 
 もうひとつの開発の目玉は、重要な濾材の高度化。昔は濾紙を使っていたが、1980年代以降ガラス繊維に変わり、すでに40年。

「次世代の素材として、綿のような表面のナノファイバーは非常に優れています。世界で当社にしかない技術です。目が非常に細かい素材でフィルタをつくるとゴミの捕獲量が3倍になります。それによってフィルタ交換までの持ち時間も3倍になりました。フィルタも交換後はゴミになるので環境にも優しい。今後はナノファイバーのフィルタをグローバルスタンダードにしていきたいと思っています」

  また、ナノ素材開発を起点に、この特色を生かしてアパレルへの転用など新たな分野への拡大を図っている。

 建機用油圧フィルタ専門メーカとして世界トップシェアまで突き進んできた同社。1本の柱から2本、3本と増やすことで、より一層の安定経営を目指すことが経営課題となっている。資金調達も整い、これからはさらにスピード感を持って臨んでいく。

山崎 敦彦(ヤマシンフィルタ株式会社)インタビュー写真

 また、同社では、「仕事=人生」だけでなく、自分の時間は自分で決められ、多様な働き方を選べるワーク・ライフ・バランスを大切にし、18時退社の徹底を図っている。どうしても残業が必要なときには、余裕のあるときに早く帰り、月次の稼働時間でバランスをとっている。

 時間外勤務は、夜ではなく朝の時間を使うことを推奨しているのが特徴だ。何時に出社しても、18時に帰ることを目標に働けば、集中力が増し効率が高まる。それでもオーバーワークになるようなら上司に相談し、仕事の分担を変えて時間内に終えられるようにする。シンプルな方法だが、18時以降の時間は、確実に家族や自分のために使えるという。

 では山崎さんのワーク・ライフ・バランスは?
「あまり言っちゃいけないと言われているんですけどね。古代中国の易経が趣味で、勉強して資格を取ったのです。会社を卒業したら、街で易者ができるんですよ」(笑)
 
 孔子の本は何度も読み返したという。文学を志した青年は、実業家として家業をパブリックカンパニーへと導き、やがて易者に。
 
 そうなってもならなくても、会社の"運命"をおしはかり、持続的成長にかじを切る。今は近い将来、次世代にバトンを渡す準備を整えているところである。

山崎 敦彦(ヤマシンフィルタ株式会社)インタビュー写真

(文=吉田香 写真=岡村享則 編集責任=上場推進部"創"編集チーム)2019/07/11

プロフィール

山崎 敦彦(ヤマシンフィルタ株式会)
山崎 敦彦
ヤマシンフィルタ株式会社 代表取締役社長
1953 年
東京都生まれ
1980 年
株式会社小松製作所入社、山信工業(現ヤマシンフィルタ)取締役就任
1982 年
小松製作所退社、山信工業取締役経営企画室長に就任
1989 年
フィリピン・セブ島に現地法人設立
1990 年
代表取締役社長就任
2005 年
社名をヤマシンフィルタ株式会社に変更
2014 年
東証市場第二部上場
2016 年
東証市場第一部指定

会社概要

ヤマシンフィルタ株式会社
ヤマシンフィルタ株式会社
  • コード:6240
  • 業種:機械
  • 上場日:2014/10/08