上場会社トップインタビュー「創」

九州旅客鉄道株式会社
  • コード:9142
  • 業種:陸運業
  • 上場日:2016/10/25
青柳 俊彦(九州旅客鉄道株式会社)

本気のバトンタッチ

青柳 俊彦(九州旅客鉄道株式会社)インタビュー写真

 2011年3月12日、九州新幹線が全線開通した。東日本大震災の翌日であったため静かなスタートとなったが、九州を一つにする40年越しのプロジェクトの完成だった。この日に先駆けてオープンした駅ビル「JR博多シティ」もJR九州の悲願の一つ。九州のランドマークとして、日本最大級の商業施設を併設して完成させた。

 新幹線の全線開通と博多シティの順調な滑り出しにより、JR九州は上場への自信を深めた。上場準備が進む中、当時、代表取締役専務鉄道事業本部長だった青柳俊彦さんは社長室に呼ばれた。何だろうと行ってみると、唐池社長(現会長)が「次は頼んだぞ」と言う。唐突な話に「何ばかなことを言ってるんだ」と一笑すると、「本気だ」と詰め寄られた。

「唐池と私は同期なんですよ。唐池が社長で、私はずっと鉄道事業を担当してきました。ですから、まさか同期でバトンタッチがあるとは思っていなかった。唐池が辞めるときは私もどこかグループ会社に行くんだろうと思っていて、でもまだ早いぞ、と思いながら社長室に行きました(笑)」

 しかし話はまったく違っていた。思いもよらぬ展開だ。確かに、鉄道事業に関しては社長以上に責任感を持ってやってきた。しかしもう一方の屋台骨である多角化事業の詳細はわからない。唐池社長の説得は続く。上場に向かうJR九州の本気度を示すときなのだ。「しょうがねえな」と覚悟を決めた。

未来に楽観的な青年

青柳 俊彦(九州旅客鉄道株式会社)インタビュー写真

 青柳俊彦さんは1977年、東京大学を卒業して旧日本国有鉄道(国鉄)に入社した。ご祖父様は戦時中、インドネシアで鉄道をひいて戦後は国鉄に勤め、お父様は鉄道病院で医師の仕事をしていた。そうした縁に導かれたようだ。しかし当時の国鉄は毎年赤字を出し、親方日の丸の無責任体質が蔓延していた。

「入社すると、先輩たちはこんなところに何をしにきたといった雰囲気でした。労使関係は完全に崩れていて、労働組合は働かないことが組合活動だと思っているし、このままじゃ続かないと思いました。でも一方で、国鉄の組織力の強さも感じていて、その組織力を生かしていずれ大改革が起こるだろうと、そんなことも感じていたのです。そのときに自分が何らかの役割を担うことができたらいいなと思っていました」

 未来に楽観的な才能を持つ青年は、雰囲気に飲み込まれることなく現場に入っていった。見習い期間は、車両の検査、中央線の特急や普通列車、貨物列車の運転などで鉄道現場を学び、京都の梅小路貨物駅、千葉運転区など労使対立が激しい現場を経験した後、アメリカに留学。機械工学のマスターを取って戻ってくると、電車区の現場長を経験し、原子力研究所へ出向した。

 こうして10年が過ぎ、1986年を迎える。国鉄の長期負債は37兆円にものぼり実質経営破綻。「日本国有鉄道改革法」に基づいてJR7社に分割民営化されることが決まった。12月には国鉄丸の内本社に新会社設立準備室が設置され、JR7社は横並びで再スタートの準備に入った。このとき青柳さんはJR九州を担当する設立準備室に呼び戻されたのである。とても嬉しかったそうだ。33歳の青柳さんは新会社の骨格づくりに奔走した。

民営化してわかったこと

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 鉄道事業の収益は、人口密度に比例する。東京、名古屋、京阪神の三大都市圏をエリアに含むJR東日本、東海、西日本は、当初から安定した経営が見込まれていた。しかし、北海道、四国、九州は多くの赤字ローカル線を抱え、そもそもの鉄道事業自体が赤字。しかもJR九州は、鉄道に必要な人員は1万2千人のところ1万5千人の雇用を保証せねばならず、余剰人員3千人を抱えてのスタートとなった。
「自分たちの給料は自分たちで稼ぐんだという思いがすごく強くなりました。一人ひとりが頑張って、自分たちで稼ぎ切らなければ会社自体がダメになる。その意識改革ははっきりしていました。先ずは本業となる鉄道事業の徹底的な立て直しでした」

 しかし九州に戻ってみると、鉄道事業は想像以上に厳しいものだった。青柳さんは福岡出身だが大学から東京に出ているため、九州のビジネス事情は知らない。まず駅に人がいないのに驚いた。九州は高速道路が発達していて高速バス、マイカーが電車の競合になっている。そして自分自身、博多までの通勤で電車を使ってみて「これでは皆から見捨てられる」と感じた。

「とにかくダイヤの使い勝手が悪い。私は香椎の社宅にいて博多まで電車で通勤していましたが、朝の通勤時間帯でも15分間隔でしか電車が来ないのです。調べてみると、朝の7時半から9時までの間に7本しか電車が走っていなかった。どうしてそんなことになっているかというと、当時、門司鉄道管理局が門司港にあって、国鉄職員がその周辺に住んでいるから門司港中心の列車運行になっていたわけです。当時もビジネスの中心は博多でした。お客様の方をまったく向いていなかったということです」

 そこで真っ先にダイヤ改正に着手した。お客様のニーズに合わせて通勤時間帯の列車本数を増やし、特急列車の始発駅は原則、博多駅からとし、発車時間も00分、30分など時刻表を持ち歩かなくても覚えられるように工夫した。

 そしてもう一つ取り組んだのが車両の刷新だ。国鉄時代、九州の車両はすべて本州からのお古が回ってきていた。こんなボロボロの電車にお客様も乗りたいはずがない。

「車両は我々にとって一番の商売商品です。ですからJRになってすぐに新製車両づくりにとりかかりました。JRグループの中で初めて優等列車の新製車両をつくったのはJR九州なんですよ。民営化された年の年度内3月に『有明』の名で営業運転を開始しました」

 有明は、禁煙・喫煙車 、自由席 ・指定席を細かく設定するため車体中央に扉を設け、1両を2室に分けるという独特の設計だった。とにかくお客様のニーズに応えようと、JR九州はすべてのサービスをお客様中心の考え方に変えていった。

青柳 俊彦(九州旅客鉄道株式会社)インタビュー写真

遊び心のある大人へ

青柳 俊彦(九州旅客鉄道株式会社)インタビュー写真

 インダストリアルデザイナーの水戸岡鋭治さんとつくってきた列車は、「お客様に喜んでいただきたい」というJR九州の思いそのものだ。青柳さんは運輸部長として列車をつくる側にいた。

 「水戸岡さんとは30年近くやってきています。最初の頃は車両を真っ赤に塗ったり緑に塗ったり、当時は新車がなかったですから、古い車両にこれがデザインだと言わんばかりに塗って、みんなびっくりしました。こういう原色が水戸岡さんの特徴なのですかと聞いてみると、『九州の人はデザインに対してはまだ幼稚園生だから、わかりやすいのがいいんだ』と言われました(笑)」

 1992年につくられた新製特急電車『つばめ』は装甲車のようなデザインで濃いグレー。その次の特急電車『ソニック』では、水戸岡氏はヘッドレストにミッキーマウスのような大きな耳をあしらったデザインを提案、青柳さんたちは高速道路と戦える最高速度130キロに挑戦。楽しさとスピードを両立させた渾身の一台となった。そして2000年、特急電車の集大成として『かもめ』の制作に入っていく。

「色はどうしようという話になり、水戸岡さんに究極の色は何色ですか?とたずねると、『白だ』とおっしゃる。われわれも幼稚園生からだいぶ大人になったことを認めてくれたのか、かもめは白でいきましょうということになりました」
 
 こうして水戸岡氏との二人三脚が続く中、新幹線の開業に合わせてローカル線の魅力アップを図ろうと観光列車の話が持ち上がった。『はやとの風』『いさぶろう・しんぺい』『九州横断特急』など、水戸岡氏の手でデザインが次々と生み出された。

「観光列車(D&S列車)をつくったのは、うちの車両課なんです。これまで車両の技術陣は車両の検査や修繕はしてきましたが、新しいものづくりは初めてだったのでみんな喜んで作りました。40年ほど使った車両を外板から外して骨だけにして、もう一回作り直す。非常に手間がかかりましたけれど、出来上がるとものすごく嬉しかったですね」

 ほぼすべての車両づくりに関わってきた青柳さんに、一番好きな列車を聞いてみた。

「みんな好きですよ。ずっと関わってきましたから、車両に関してはどれも私は満足しています。どれか一つというと、いちばん力を入れてつくった新幹線の800系、つばめです」

青柳 俊彦(九州旅客鉄道株式会社)インタビュー写真

念願の上場を果たした先に!九州の、日本の、アジアの元気をつくる

青柳 俊彦(九州旅客鉄道株式会社)インタビュー写真

 2016年10月、JR九州は東証市場第1部上場をはたした。30年前、多くの赤字路線と3千人の余剰人員を抱えてスタートしたJR九州が、上場できると考えた人は少なかったのではないか。

「私たちは30年前から、初代社長の石井さんの時から『上場を目指していこう』と言っていたんですよ。ただ先ずは3千人の給与を何とかしなければいけないと、駅に売店をつくり、うどん屋をつくり、すぐにできる事業はなんでもやっていきました。当時の新聞にはダボハゼ商売と書かれたぐらいです。

大手百貨店にも出向して商売を学び、焼き鳥屋もマンション事業もぜんぶ自分たちでやってきました。もちろん失敗もしましたが、とにかく人は余っていますから自分たちでやる。毎年100億円から200億円のショートを自分たちの利益で埋める。最初の10年はこれだけです。次の10年で自分たちに合う事業を見つけていって、そこから鉄道事業の次の柱をつくっていきました」

 事業の多角化展開を伺うと、「自分たちでやる」、「利益を出す」、この二つの言葉が青柳さんの口から何度も出てきた。ここにJR九州の強さの根源があるのだろう。自分たちでやるということは、自分たちで考えるということだ。だから本物の力になり利益が生み出されていく。飲食業、不動産事業、駅ビル事業、それぞれの事業は大きく育ち、いまやJR九州の収益構造は鉄道事業40%、その他の事業が60%を占める。JR九州の多角化は、鉄道事業を核にまるで街が栄えるように発展を続けている。

 昨年12月、不動産事業はタイに進出した。タイに現地法人を設立し、サービスアパートメントホテル事業を展開する。

「タイは毎年3千万人を越える観光客を受け入れています。特にバンコクは観光客も多いし、駐在員も多い。どうしたらお客様が来るのか、そのような街づくりができるのか、受け入れ体制はどうなっているのか。これを勉強して九州で新しいサービスができないかチャレンジしたいと、事業開発本部が言ってきたのです。それならばやってみようと、昨年進出しました。

失敗を恐れないでチャレンジすることが大事だと思っています。うまくいかなかったら次の作戦を考えればいい。それでもうまくいかなかったらやめればいい。鉄道事業はそうはいかないですけどね。本業の安全に関わらない話であれば、とりあえずやってから考えようと思っています。石橋は足を乗せてみて大丈夫だったら渡る。ときどき滑ることはありますけどね」

青柳 俊彦(九州旅客鉄道株式会社)インタビュー写真

 
 青柳さんは楽しそうに笑った。未来に対して明るい才能は、いまも変わらない。現在の趣味を伺うなかで、「JR九州龍馬会」の代表を務められていることも判明した。「西郷どん」ではないのですねと伺うと、

「私は鹿児島にいたこともあって、西郷隆盛は偉人という印象ですが、龍馬は隣の兄ちゃん的な感じがあって好きなんですよ。それでいて志が高くて、いいことを言っていますよね」

 誰からも素直に学ぶ性格、しなやかな世界観。そんな坂本龍馬のキャラクターが青柳さんとダブって見えた。JR九州は、もはや鉄道事業会社ではない。上場という維新を切り拓き、「やさしくて力持ちの総合まちづくり企業グループ」を目指している。アジアのエネルギーを取り込んで、日本にどんな風を届けてくれるだろう。JR九州のチャレンジに期待が膨らむ。


(文=江川裕子/写真=河本純一/編集責任=上場推進部"創"編集チーム)2018/03/02

プロフィール

青柳 俊彦(九州旅客鉄道株式会社)
青柳 俊彦
九州旅客鉄道株式会社 代表取締役社長
1953 年
福岡県生まれ
1977 年
東京大学工学部卒業、同年、日本国有鉄道(国鉄)入社
1987 年
国鉄の分割民営化にともない九州旅客鉄道株式会社へ
2001 年
同社鉄道事業本部運輸部長
2004 年
鹿児島支社長
2005 年
取締役鹿児島支社長
2006 年
取締役鉄道事業本部副本部長兼企画部長兼安全推進部長
2008 年
常務取締役鉄道事業本部長
2013 年
代表取締役専務鉄道事業本部長
2014 年
代表取締役社長

会社概要

九州旅客鉄道株式会社
九州旅客鉄道株式会社
  • コード:9142
  • 業種:陸運業
  • 上場日:2016/10/25