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上場会社トップインタビュー「創」

株式会社西部技研
  • コード:6223
  • 業種:機械
  • 上場日:2023/10/03
株式会社西部技研

大学の研究室から生まれた技術、世の中のために

株式会社西部技研

 日本で大学発ベンチャーが本格化したのは、1990年代後半から。1998年に「大学等技術移転促進法」、1999年の「産業活力再生特別措置法」など、大学発ベンチャー創出の基盤が整備されたことによる。
 しかしそれ以前にも大学の研究者たちが自ら事業を立ち上げ、成功し、今なお成長を続ける企業がいくつかある。デシカント除湿機やVOC濃縮装置等の特殊な空気処理装置を製造・提供する西部技研はその代表例の一つだ。同社は、大学発ベンチャーという概念がなかった1965年(創業は1962年)に当時九州大学工学部の研究者だった創業者により設立された。
 同社創業者は、隈利實さん。現在の社長隈扶三郎さんの実父にあたる。会社設立時にはわずか1歳の隈扶三郎さんは、のちに地元福岡の大学の法学部に進学。余暇は音楽サークルで活動し事業を継ぐことを強く意識してきたわけではないが、大学の長期休暇には同社でアルバイトをし、会社とは良い関係を保ってきた。

「事業承継の家族会議で2人の兄が会社を継がないことを表明したので、私が入社を決意しました。3人も兄弟がいて誰も継がないのも両親が気の毒だと感じたということが正直なところです。父は生粋の技術者で世の中の役に立ちたいと実業界に入ったのですが、私は文系出身です。役に立てるのか不安もありましたが、諸先輩方から経営にはマネジメント能力が重要だと助言され、そうかなと思いました」

 隈さんの入社当時は、会社設立から20年以上経ち、シリカ素材等を使用したデシカント除湿ローター、超低露点シリカゲル・ゼオライト ハイブリッド除湿ローター「SZCR」といった独自技術を生かした製品の商品化は成果をあげていた。またスウェーデンのDST(Sorption Teknik AB)社との業務提携も完了し、グローバル化にも一歩を踏み出していたが、経営面、営業面での成長の余地はまだ大きかった。
 先輩の言葉は、後輩への激励であるとともに、強くアクセルを踏み込める経営者に育ってほしいという切実な願いであったのかもしれない。

 入社3年後の社命でのアメリカ出向は、そんな会社の期待の表れだ。隈さんにとっても最初の大きなターニングポイントとなった。

ハニカムという心臓部の技術を持ち、完成品メーカーへ飛躍

株式会社西部技研

 入社3年目に海外営業部に配属になった隈さんは、ニチメン(現 双日)米国法人に出向となった。技術をアメリカで広めたいという、ニチメン、西部技研の社長双方の意向に沿ったものだった。同社の技術は総合商社で扱うには専門性が高く、市場もニッチなので、当時のニチメン担当者が「西部技研からも人を出してはどうか」との打診があった。

「赴任先のニューヨークでは、まだ確固たる未来像を描けていなかった20代のころに、人生の先輩でもあるニチメン担当者の方からさまざまな話を聞かせてもらいました。こうした交流や初めての海外生活を通じて、自分の境遇を客観的、肯定的にとらえられるようになり、後継者としての覚悟が決まりました」

 福岡から全国へ、そしてアメリカをはじめ世界への扉をたたくまでになった同社の基幹技術とはどういったものなのか。

「主力は“ハニカム”と呼ばれるハチの巣状の構造体技術を用いた特殊な空気処理装置です。デシカント除湿機、VOC濃縮装置、全熱交換器などが現在の基幹商品であり、この心臓部にあたるハニカムを自社で開発・製造している点が他社に対する優位性や参入障壁を生み出していると思います」

 この技術を用いることで一般的な冷却式の除湿機では及ばない“カラカラ”の空気を生み出すことができる。製造工程での厳密な湿度管理が必要な電子・半導体や医薬品工場など、多種多様な需要・用途がある。

 時代をさかのぼって、同社の歩みを紹介したい。大学発ベンチャーの先駆けであったことは前述のとおり。創業時の社名は、本田技術研究所(現在の本田技研工業)にならい「株式会社西部技術研究所」と名付けられた。
1972年には委託研究を行う会社から自社製品の開発・製造・販売を行うメーカーへの転換をはかり、事業の幅を示す意図から「西部技研」と社名変更している。

「委託研究では事業が回らず持続性がないことにはすぐに気づき、ハニカムを部品としてセットメーカーに販売することに転換しました。それでも創業者は顧客との競合を避けるため、部品供給に特化し完成品販売には否定的でした。代替わりを機にいろいろなメンバーが入り、せっかく心臓部を持っているのなら自分たちで完成品を販売すれば、付加価値が10倍から20倍になる、チャレンジをしたいという意見が多数出て、完成品事業に進出したことが会社の急成長の契機になりました」

予期せぬ早期の事業承継も製品開発とグローバル化は加速

株式会社西部技研

 さらなる転機は予期せぬかたちで訪れた。渡米から約2年半後に帰国した隈さんは、本社営業部、東京営業所勤務を経験するが、1997年に社長が病を患ったことにより、東京から本社に戻り、取締役に就任することになる。社長の快復はかなわず逝去し、これまで財務経理をみてきた母親が社長に、自身は専務取締役となった。

「母との二人三脚での経営は、思いのほかうまくいき、事業承継の道筋が明確になりました。母は約5年かけて私が社長として意思決定しやすい組織に刷新するなど、体制を整えてくれたのです」

 37歳での社長就任当時の売上規模は、約26億円、社員も100人くらいだった。その後も業績や研究開発面でも足踏みをすることなく、製品開発とグローバル化は加速していく。本社移転、本社工場の設立は、先代の時代に遂げていたが、2000年以降にはアメリカ、ポーランドに子会社設立を果たした。中国にも進出。上海に駐在員事務所を設けたのを皮切りに、中国・江蘇省常熟市に子会社を設立、さらに同市に工場を開設した。国内でも本社のある福岡県古賀市に第二・第三工場を開設し、新たな除湿・空調装置の開発、商品化にまい進した。

「当社は創業時から環境と省エネルギーが事業セグメントでした。そこに『先端技術への貢献』を追加しています。当社の生み出す製品やサービスは、環境保全、省エネの観点からポジティブです」

 それがサステナビリティにもつながると胸を張る。

社員と会社がともに成長を続ける好循環を

株式会社西部技研

 こうしてグローバルニッチトップ企業としての地位を固めていく一方で、人材活用面でもテコ入れを図ってきた。隈さんが社長に就任する前の1990年代半ばから懸念事項とされていたのは、入社した優秀な女性社員が結婚、出産などのライフイベントを機に退職する状況が続いていたこと。働きながら子育てをしてきた二代目社長・隈智恵子さんが特に問題視し、強く改善を促した。

「育休取得・時短勤務のしやすさの向上、男性管理職への協力要請、企業内保育所の設置などさまざまな施策を行った結果、現在では出産を機に退職する女性社員は、ほぼゼロになっています。プロパー社員から女性役員も出てきています」

 企業内保育所には、社員の子どもだけでなく地域の方の子どもも受け入れ、地域貢献の一環にもなっている。女性を支援する視点から、男女協働・活躍のステージにすでに移行しているという。

 さらに現在では上場を経て、会社の規模が拡大し、新卒採用の社員だけでは十分ではなくなってきている。

「中途採用を増やして、多様な人材に活躍してもらう必要が出てきました。会社の規模は、私が社長になったころとは比較にならないくらい大きくなり、グローバル展開も進んでいます。事業が多様化してきた反面、創業の精神でもある技術へのこだわりや、チームワーク良く常に新しいことに挑戦しようという活力みなぎる企業文化が薄れてきているという課題認識を持っています。そこで当社の企業文化を維持しつつグローバル経営にも適応するために、2024年にグループとして大切にしていく価値観を5つのコアバリューとして再定義しました。今は理念教育や私と社員が対話を行うタウンホールミーティングを通じて、時間をかけて社内への浸透を図っている最中です」

「達成」「結束」「探究」「協働」「機敏」。この5つのコアバリューのもと、会社の成長が社員の成長機会につながり、それがさらなる会社の成長をうながすという好循環を目指していると、隈さんは話す。

「株主、顧客、社員を含むすべてのステークホルダーのために、会社が健全に成長することが最も重要なのです。会社が成長することで社員にもまた新たな成長の機会を与えることができます。これまでも社員ががんばってきたからここまできました。これからも社員とともに成長し、ステークホルダーの期待に応えていく考えです」

「事業拡大」「優秀な人材採用」「事業承継の備え」に上場という最適解

株式会社西部技研

 プライベートカンパニーからパブリックカンパニーへ歩みを進める中、上場を決断したのは2018年のこと。その理由はいくつかある。

「グローバルでの事業拡大に伴い、工場へのさらなる投資が必要になりました。これまで銀行融資を利用していましたが、市場から直接資金を調達することで、資金調達の多様化とグローバルな信用力向上を図りたく上場を決断しました」

 2つ目は「優秀な人材の採用」。福岡のニッチな業界のため、全国区の知名度が低く、広く人材を採用することに課題があったという。上場による知名度と信用度の向上で、グローバルに挑戦する意欲ある優秀な人材を採用することを目指した。
 
 3つ目には事業承継の課題がある。

「私は50歳を過ぎて子を授かったので、子どもへの事業承継は現実的ではありません。親族にも適切な後継者がいない中、会社の永続性を考えた際、M&AやIPOが選択肢となり、IPOの決断に至りました」

 明確な3つの目的は達成または達成しつつある。上場後、株式による資金調達は計画どおり工場建設などに充てられた。また人材採用面でも応募者の質が上がったと実感する。このことで将来の経営者候補の選択肢増につながる。
 
 しかし上場準備は予想以上に大変だった。創業から60年近く我流だった経営のやり方を上場基準に合わせていく作業が最も困難で、成熟した企業が上場を目指すケースも多くはなく、調整に苦労したと振り返る。

「自分たちだけではできないので、外部からも人材を募り、プロジェクトチームを立ち上げました。また、上場は本社だけの問題ではありません。連結決算に海外含めグループ会社を巻き込む必要があります。上場準備の際、会計基準をIFRS(国際財務報告基準)に近い形に統一するよう求めましたが、グループ会社にはメリットが感じられないと反発が大きかったのです。しかし上場後にはグループ戦略を策定して現地法人にも共有するようになったことで、帰属意識や一体感が生まれ、結果的に良かったと思っています」

 上場から約2年経ち、今では上場企業として資本コストと株価を意識した経営を実践している。配当性向4割以上という方針を開示し、2025年に10億円の自社株買いを実施。こうした株主還元と並行して、事業を成長させ、利益を出すことが基本だと考えている。また株価も期待値に向け努力していきたいと隈さんは話す。

未開拓の領域に挑戦し、世界の空気を変えていく

株式会社西部技研

 今後の展望について話を聞いた。

「西部技研の技術は特殊な空調、空気処理の装置、機器を売るビジネスです。もともとは心臓部だけを販売していたが、完成品を製造販売するようになった経緯は、これまでお話ししたとおりです。今すでに次の段階に発展しており、機器の据え付け、アフターサービス、メンテナンスなどの事業にも力を入れています。さらに、たとえば今最も伸びているユーザーはリチウムイオン電池工場で、全工程ドライな環境が必要です。これまではこうした環境を施工するプラント会社に機器を売っていました。10数年前、取引先から自分たちで施工はやらないのかと言われたのをきっかけに、今ではドライルーム、クリーンルームの施工事業にも進出しています」

 全工程に同社がかかわることで、エンドユーザーと直接取引ができる。結果として受注額が大きくなるだけでなく、ユーザーから直接フィードバックがくることで、次の技術開発や製品化のヒントが得られる。

「もう一つの成長エンジンはグローバル展開の加速です。すでに進出している国に対しては、部品供給中心の展開から事業の幅を広げ、未開拓の東南アジアやインドへの投資を視野に入れています。すでにタイに法人を設立しました。インドはこれからの市場としての期待が大きく、現地企業から共同事業のオファーも届いています」

 これから上場を目指す起業家へのアドバイスは——

「比較的新しい会社で上場を視野に入れている場合は、上場に向かって会社の方針や進む道筋を合わせていけばいいのでぜひチャレンジしてほしい。ただ当社のように歴史がある会社は難易度が高いので、慎重な検討が必要かもしれません。いずれの場合でも上場が目的ではなく、上場後に何を求めるのかを明確にしたほうがいいと思います。経営の難易度は上場の前と後では格段に上がり、目的を見失うと疲弊してしまいます。上場後も自分が経営を続けるなら、その後のビジョンが非常に重要だと考えます」

 特別な趣味はあまりないという隈さん。唯一続けているのはランニングだという。海外出張時にも行い、ストレス解消にもつながっている。一方で、家族の時間を大切にしたいとイクメンの一面を見せる。家族とともに生き、働いてきた半生だが、これからはパブリックな会社のトップとして未来の西部技研を創ってほしい。

(文=吉田 香 写真=比田勝 大直 編集責任=上場推進部"創"編集チーム)2025/09/08

プロフィール

株式会社西部技研
隈 扶三郎
株式会社西部技研 代表取締役社長執行役員
1964 年
福岡県生まれ
1987 年
株式会社西部技研 入社
1990 年
米国ニチメン社 出向
1997 年
株式会社西部技研 専務取締役営業本部長就任
2002 年
株式会社西部技研 代表取締役社長就任
2023 年
東証スタンダード市場に株式上場

会社概要

株式会社西部技研
株式会社西部技研
  • コード:6223
  • 業種:機械
  • 上場日:2023/10/03