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Vol.349 連載第八回「澁澤栄一と東京株式取引所」

前回述べたように、日本に近代的な産業を興して行く為には、欧米のような銀行制度が必要だという事は初期の明治政府内での共通認識でした。
明治2年には幕末に開港した6か所の港にそれぞれ、為替会社と商社が、明治政府主導で設立されます。
為替会社の為替とは、日本で最初のBankの和訳でした。

例えば、横浜には、政府主導の下で横浜の大商人達や三井家が共同出資した横浜為替会社と横浜商社が設立されます。
この横浜為替会社では生糸貿易で不足しがちな決済用貨幣を補うためのドル紙幣を発行する等も試みられました。
結局、これらの為替会社等は横浜為替会社を除き、直ぐに経営が成り立たなくなり破綻します。
銀行はもちろん、会社経営という事がよく理解されていなかったことが原因といわれています。
ちなみに、横浜為替会社だけは、その後、第二国立銀行の母体となり、現在の横浜銀行へと続いていきます。

大蔵省に出仕したばかりで、改正係となった澁澤栄一は、この為替銀行の運営も担当の一つだったとされています。
日本に銀行制度を導入する事を急ぐ、大蔵省改正係や伊藤博文は、南北戦争後の混乱を治める為に始まった米国の国法銀行制度(National Bank)に注目します。
伊藤博文は、日本の各地の為替会社の担当者等を集め、1870(明治3)年に米国銀行制度調査団を組織して、米国の銀行制度調査に出向きます。
澁澤等は伊藤の報告を受けて検討するという事になりました。

この際に、英国に留学して英国のイングランド銀行制度、つまり中央銀行制度を詳しく知る吉田清成による中央銀行制度を中心とした銀行制度か、あるいは伊藤の調査による米国の国法銀行制度を模した銀行制度にするかについて、大蔵省内で1年以上の議論となり、結局、時の大蔵大輔井上馨の決断で、国法銀行制度を導入する事となります。
この井上の決断を後押ししたとされるのが澁澤栄一で、澁澤は一橋家時代の藩札発行の実体験から改正係の議論を主導したとされています。

1872(明治5)年に米国の国法銀行制度を日本に導入する為の国立銀行条例が施行されます。
この法律の起草は澁澤栄一で、米国国法銀行制度が完全な株式会社制度であったことから、日本に株式会社制度も併せて導入する必要があり、同法には株主の有限責任が明記される事となりました。


(金融リテラシーサポート部 石田 慈宏)