東証 アジア スタートアップ ハブ
Insignia Ventures Partners
Insignia Ventures Partners オフィス前に立つ Yinglan Tan氏 Photo credit: Insignia Ventures Partners
東南アジアと日本、Insignia Venturesが東証と描く「互いを高め合う」構想とは
東京証券取引所が2024年に立ち上げた「東証 アジア スタートアップ ハブ」プログラムには、支援対象企業として20社が採択されている(2026年2月現在)。その中で最多となる5社が投資先企業として選定され、すでに1社の東証上場実績を持つベンチャーキャピタルがある。シンガポール拠点のInsignia Ventures Partners(注)だ。
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「日本市場は、我々の投資先企業にとって東南アジア域外で最も重要な市場です。」(同社創業パートナーYinglan Tan氏)
東南アジアと日本、この二つの市場を「双方向」でつなぐInsignia Ventures Partnersの戦略と、東証が描く新しい資本市場の姿とは何か。Tan氏に詳しく話を聞いた。
ユニコーンクラブ、AIが参加する投資委員会──Insigniaの差別化戦略
Insignia Ventures Academy では、将来のベンチャーキャピタル専門家を育成 Photo credit: Insignia Ventures Partners
Yinglan Tan氏は、東南アジアVC業界の新世代を代表する投資家のひとりだ。カーネギーメロン大学で電気工学と経済学の二重学位を取得後、スタンフォード大学で経営科学修士、ハーバード大学でJohn F. Kennedy Fellowを修了。
シンガポール首相府や貿易産業省でイノベーション政策に携わった後、Sequoia Capitalの東南アジア初のベンチャーパートナーとして、Tokopedia、Go-jek(現GoTo)、Carousell、Appierといった後のユニコーン企業への初期投資を主導した。2017年にInsignia Ventures Partnersを創業し、インドネシア、ベトナム、シンガポール、台湾などで90社以上に投資。運用資産総額は約10億シンガポールドル(約1,240億円)に達する。しかしTan氏は言う。
「真の強みは資本規模にとどまりません。」(Tan氏)
同社が掲げる差別化要因は4つある。
第一は、90名を超える「ユニコーン創業者クラブ」だ。AirbnbやTencent(騰訊)の創業者から東南アジアの主要ユニコーン経営者まで、成功した創業者たちが集う非公式ネットワークで、新規案件の紹介、デューデリジェンスへの協力、エグジット機会の創出において重要な役割を果たす。
第二は、社内テクノロジーチームによる徹底したAI活用だ。投資委員会にはバーチャルなAI委員が存在し、長年蓄積したデータをもとに案件を1〜10点で評価する。アナリストAIがLinkedInで有望な創業者に自動アプローチする仕組みまで構築し、タームシートや株主間契約書のドラフトを10秒で生成できる。
「全チームメンバーにAIワークフローの導入を義務付けています。少なくとも初期段階では、法律事務所に依頼する必要すらありません。」(Tan氏)
第三は、「Insignia Ventures Academy」による人材育成だ。すでに250名以上の卒業生を輩出し、その多くがInsigniaの投資先企業に就職するか、CFOなど経営幹部として参画している。消防士からソブリン・ウェルス・ファンドのポジションに就いた人物、日本の商社からアジア横断ファンドを立ち上げた女性、別の商社で6度の昇進を経てグループCEOとなった人物まで、卒業生の経歴は多彩だ。
第四は、継続的な企業インキュベーションだ。
「規模が大きくなっても、業界や市場の変革における未開拓の領域を見つけ、インキュベーションを続けています。」(Tan氏)
ユニコーンクラブから事業アイデアが生まれ、Academyで育成された人材がそれを実行し、テクノロジーチームがツールで支える──この循環こそ、Insigniaの競争優位性の核心だ。
台湾から日本へ──Appierの挑戦
Appierは2021年、東京証券取引所に上場 Photo credit: Appier
Insignia Ventures Partnersと東証の本格的な連携は、AIマーケティング企業・Appierの成功から始まった。Tan氏がAppierと出会ったのは、売上の70%を台湾に依存していた頃だ。
「台湾は小さな市場です。大きな市場を見つけなければなりません。」(Tan氏)
そのアドバイスを受けた創業者夫妻のChih-Han Yu(チハン・ユー)氏とWinnie Lee(ウィニー・リー)氏は、日本市場の開拓に全力を注ぎ、やがて日本事業は全社売上の約40%を占めるまでに成長した。
Tan氏の支援はネットワーク構築から始まった。JAFCO Investment (Asia Pacific) President & CEOだった渋澤祥行氏をAppierに紹介し、渋澤氏は多くの日本企業をAppierに引き合わせた。次はソフトバンクの孫正義氏との面談を実現させ、SoftBankの出資につなげた。JAFCO、ソフトバンクという日本の有力投資家が株主に名を連ねたことで、Appierの日本市場でのプレゼンスは飛躍的に高まった。
その後、日本人CFOを採用し、本社機能の日本移転(インバージョン)に向けた監査・税務対応を一つひとつクリア。主幹事証券会社を選定し、東証との関係も構築された。2021年3月、コロナ禍でオンライン中継となった上場セレモニーでは、台北で特注の銅鑼を鳴らして祝った。この成功が、東証との本格的な連携への道を開いたのだ。
Appierの成功は、日本市場攻略の「再現可能なモデル」を示した。東南アジア企業にとって日本市場が魅力的な理由は3つある。
第一に、市場規模だ。東南アジアは10カ国に分散し、言語・宗教・決済システムもバラバラで、インドネシアを除けば各国市場は小規模だ。対して日本は単一市場として大きく、一人当たりGDPも高い。
第二に、支払能力と信頼性だ。
「日本企業はソフトウェアサービスに対して対価を支払い、期日を守ります。」(Tan氏)
BtoBサービスを展開する企業にとって、これは決定的な魅力だ。
第三に、深い資本市場の存在だ。東証は世界有数の流動性を持ち、グロース市場が成長企業にも門戸を開いている。ユニコーン級企業にとってはNASDAQに次ぐ選択肢であり、中堅企業にとっては主市場としての魅力がある。
ただしTan氏は釘を刺す。
「日本市場を制するには時間がかかりますが、一度成功すれば非常に大きな市場になります。Appierから学んだのは、『忍耐』が必要だということです。」(Tan氏)
日本攻略の「3つの壁」とローカライゼーションの本質
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Appierの成功を受け、Insignia Ventures Partnersは「東証 アジア スタートアップ ハブ」のパートナーとなり、現在5社の投資先企業がこのプログラムに選定されている。しかし東南アジア企業が日本市場に参入する際、最大の障壁は言語だけではない。
「日本市場を理解するには、3つの言葉を知る必要があります。根回し、人脈、飲みニケーションです。」(Tan氏)
根回しは、意思決定前にすべてのステークホルダーと個別に調整する慣習だ。
「中国では、ボスがボスです。1人に話せば決まります。だが日本では通常はコンセンサスで意思決定がなされるため、グループ全体の承認を得る必要があります。」(Tan氏)
投資委員会メンバー全員、時には現場担当者まで、事前に合意を取り付けておかねばならない。
人脈は「誰があなたを保証するか」の問題だ。Appierの日本進出でも、渋澤氏や孫氏が果たしたのは単なる資金提供者ではなく「後ろ盾」としての役割だった。
「渋澤さんが保証してくれるなら、それは信頼の証です。孫さんが保証してくれるなら、さらに強力です。」(Tan氏)
飲みニケーションはビジネスの場が会議室だけでないことを示す、東南アジアとは異なる慣習だ。
「ローカライゼーションは単なる言語の翻訳ではありません。決済システム、販売方法、すべてを現地化する必要があります。」(Tan氏)
この教訓を体現するのが、プログラム参加5社それぞれのアプローチだ。
AIフィンテックのSurfin(累計取引高40億米ドル超)は日本の金融規制に対応した高利回り商品を設計し、メンタルヘルステックのIntellect(アジア太平洋15言語・400万ユーザー超)は日本独自のストレスチェック制度に合わせたソリューションを独自開発した。
フィリピン初の民間デジタル銀行Tonikはみずほ銀行が約10%を出資して取締役も派遣しており、eコマースブランドアグリゲーターのRainforestは日本小売企業にとって東南アジア市場への入口となりうる。
Y Combinator出身のインドネシア最大級物流プラットフォームShipperは300以上の倉庫ネットワークを持ち、日本の物流大手にとって東南アジアネットワークの獲得手段となる可能性がある。
プログラム外でも、Insigniaの投資先企業の中にはアメリカ市場と東証への重複上場を戦略的選択肢として検討している企業もあると言う。日米での重複上場は時差を活用した24時間取引という観点から、東証上場の価値は大きい。
岩手県との連携と「センセイ」としての責任──人材が結ぶ架け橋
2026年1月6日の会見で、Insignia Ventures Partnersと起業家養成施設の設置について説明する岩手県知事の達増拓也氏(岩手県のYouTubeから)
Insignia Ventures Partnersのもうひとつの柱が、「教育者としての役割」だ。
「アジアでは『センセイ』への敬意が非常に強い。その信頼関係は非常に大きな資産です。教育者としての信頼があったからこそ、岩手県の知事が私たちをパートナーに選んでくれ、共同で教育機関を運営することになりました。」(Tan氏)
岩手県からの40,000平方メートルの土地補助を受けた教育機関の設立計画が進んでいる。日本の地方自治体が外資系VCにこれだけの規模の土地を提供するのは異例だ。この施設では、東南アジアの若手人材に日本のビジネス文化・製造業のノウハウ・品質管理の思想を教育する一方、日本の若者には東南アジア市場の多様性やデジタル経済の最前線を伝える。岩手県にとっては地方創生の起爆剤、Insigniaにとっては橋渡し人材の育成、企業にとっては即戦力の国際人材の確保──三方良しのエコシステムだ。
「教育は、最も長期的な投資です。10年、20年先の成果を生み出す。私たちは『センセイ』として、次世代に責任を負っています。」(Tan氏)
東証に対してもTan氏は高く評価しつつ、3点の期待を示す。
一つ目は企業構造の柔軟性だ。JDRスキーム(海外企業が発行する株式を裏付けに、日本で発行された預託証券を東証に上場させる仕組み)の実用化により、外国企業が日本法人化せずに東証上場できる選択肢が生まれた。日本法人化すれば流動性や投資家認知度が高まるため一般的には推奨されるが、選択肢があること自体が重要だとTan氏は言う。
二つ目は海外企業誘致の継続だ。
「東証のCEOが、シンガポールまでわざわざ来訪し、自ら登壇して挨拶していました。2025年のフォーラムには500名超が来場した。これは取引所として通常の枠を超えています。」(Tan氏)
三つ目はコーポレートガバナンスの継続的向上だ。日本の上場企業はここ数年でガバナンス水準と情報開示の質を大幅に高めており、Tan氏はこれを「東南アジア企業にとって学ぶべきロールモデル」と評価する。
双方向の成長戦略──日本企業の野心とM&A機会
Photo by Sven Scheuermeier via Freerange Stock Used under the CC0 license
Insignia Ventures Partnersは、東南アジア企業の日本進出を支援するだけでなく、日本企業の東南アジア展開にも注目している。次の任天堂、楽天、ソフトバンクを生み出すには国際展開が不可欠であり、成熟した日本市場だけでは内需の成長余地が限られる──そうTan氏は見る。文化的にも地理的にも近い東南アジアへの展開を、Insigniaは伴走者として支えることができると言う。
Tan氏が日本企業の可能性を語る際に引き合いに出すのが、自社が投資する日本のデジタル証券会社ブルーモだ。現時点では小規模だが、同様のビジネスモデルで展開するインドのGrowwは、Insigniaが投資した当初のバリュエーション500万米ドルから70億米ドルでIPOを果たした。
「日本企業が『日本市場だけ』に留まるなら小さい。だがグローバルプレイヤーを目指すなら、我々はそのプレイブックを提供できます。」(Tan氏)
東証との連携には、M&Aという側面もある。東証上場企業がInsigniaの投資先企業を買収することで、日本の大企業が東南アジア市場へ即座に参入できる可能性がある。
東南アジアと日本は、これまで「一方向の関係」として語られることが多かった。しかしInsignia Ventures Partnersが描くのは「双方向の成長」だ。東南アジア企業が日本で資金調達し、規律を学び、市場を開拓する。同時に、日本企業が東南アジアの成長を取り込み、グローバルプレイヤーへと進化する。東証はその「接続点」となる。
「我々には5社が東証 アジア スタートアップ ハブに参加しており、1社がすでにIPOしました。東証やみずほ銀行との関係は強固です。同じチームで、さらに多くの成功事例を生み出せると確信しています。」(Tan氏)
長年にわたるデータ蓄積がAIを強化し、ユニコーンクラブが信頼を深め、Academyが次世代人材を育てる──この複利のエコシステムが動き続ける限り、次のAppierが生まれる土壌は確実に整いつつある。
本稿は、Growthstock Pulse に掲載された記事の要約です。全文は、Growthstock Pulse の記事(前編と後編)をご覧ください。