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日本証券取引所出資証券

日本証券取引所出資証券

写真左は、昭和18年6月30日に設立された日本証券取引所の出資証券(百口券)、写真右も同様(拾口券)のもので、いずれも昭和19年3月1日に発行されたものです(一口は50円となっています)。

日本証券取引所は、戦時経済の進展下、証券市場に対する統制の高まりを受け、全国の11株式取引所(東京、大阪、横浜、名古屋、京都、神戸、博多、広島、長崎、新潟、長岡)を基に、本所(本部の意)を旧東京証券取引所(東株)内に、支所を各地取引所内に設置して発足、昭和18年7月1日から立会を開始しました。

資本金2億円のうち政府が4,738万円出資し、役員は総裁以下全員が政府により任命され、出資証券の配当は5%を保証(最高は6%に制限)するなど、同取引所は国家統制機関としての性格が強いものとなったほか、証券の引受け・募集に加え、自らが売買の当事者となり、株価安定に寄与するなど、その業務内容が大幅に拡大されました。

写真の出資証券は売買の対象になりましたが、いわば確定保証の利付き証券に過ぎなかったことから、かつての花形株“東株”のような人気はなかったと言います。

昭和20年に入ると、本土空襲が本格化していきますが、当時の状況は「戦局が悪化するにつれ、若者は兵役につくので、証券会社社員の新規採用は難しくなる。兜町からも召集されるものが続出し、証券会社の人員不足は年ごと、月ごとに激しくなっていった。やがて火事で焼ける証券会社の本支店が続出しはじめた。空襲によって休会が次第に多くなった。当時、兜町に残った数少ない証券マン、取引所所員、才取人たちは、鉄兜をかぶって、歩いて市場へきたそうである」(兜町見聞録)と描かれ、株式市場を取り巻く環境が極めて窮地に追い込まれていたことが伺い知れます。

その後、長崎に原爆が投下された昭和20年8月9日、日本証券取引所は「当分休会」を宣言しましたが、この日を最後に、わずか2年余り続いた同取引所の幕は閉じられ、昭和24年5月15日まで、正規の取引所は閉鎖されることとなります。