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東京証券取引所定款“案”

定款の“案”

リバービュー・ホテル

右の写真は、昭和23年、東京証券取引所設立に向けて作成された『定款“案”』です。ところどころに訂正箇所等がみられ、作成の苦労が伺える代物です。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)マッカーサー元帥がコーンパイプを手にしながら厚木基地に降り立ったのが昭和20年8月。その後、紆余曲折を経ながら取引所再開の準備は進められますが、この間、取引所は占領軍に接収され、「エクスチェンジ・ホテル」と呼ばれていました。

当時、日本橋周辺の焼け残った大ビルは次々に接収され、取引所も米国海軍通信部隊の宿舎となり、旧市場館フロアはダンスホールに利用され、旧本館の正面玄関には衛兵が立っていたとのことです。また、日本橋通りの野村銀行ビル(当時)は「リバービュー・ホテル」、茅場町一丁目の山一証券車庫(同)は「GHQ 中央購買部」となるなど、当時の兜町はさながら占領軍の町であったといいます。

終戦直後、経済が混沌とし、財閥解体等の基本的占領政策が完了していない状況下、取引所組織、売買制度等が米国のそれと異なり、投機的色彩の強かった取引所の再開は時期尚早とGHQは考えていたようです。しかしその後、店頭売買が比較的無難に行われていたことや、日本経済の復興実情等から徐々にその態度を軟化させていきます。

こうした中、昭和23年4月、本文211条、付則9条からなる戦後最大の立法となった改正証券取引法が施行されます。そして、これを受けて東京証券業協会 (当時)は、取引所設立準備委員会を組織し、新取引所の自治法規である定款、業務規程、受託契約準則、有価証券上場規程などの諸規則案を取りまとめ、GHQとの折衝に臨みました。

ところが、最初にGHQに提出した諸規則案は、戦前の我が国証券市場独特の取引技術・慣行が少なからず盛り込まれていたことから「修正」を要求されたとのことです。その後、関係者はやむなくサンフランシスコ株式取引所の諸規則の翻案を提出してGHQの了解へとこぎつけますが、この『定款“案”』からは、そんな苦労も伝わってきます。