明治150年 明治期の証券市場誕生

1. 生い立ち

渋沢栄一の肖像

渋沢栄一は、天保11(1840)年に、現在の埼玉県深谷市血洗島(ちあらいじま)で農業と藍染め染料を売る豪農の家に生まれました。血洗島は利根川と小山川に挟まれた地域で、JR深谷駅よりJR岡部駅のほうが近い深谷市の北部にあたります。
栄一は、論語好きの父親から論語の手ほどきを受けた他、一族で学者をしていた尾高惇忠に学問を学ぶことで、学問を得ることができました。のちに一橋家において家臣とした後、慶喜の弟である昭武に従って、フランスに2年弱の留学を経験します。

2. パリ留学

フランス・パリで、栄一は株式取引所を見学する機会を得ます。
「なるほど、自分が事業を興さなくとも、株式を買えばその事業に参加できるのか」
栄一は株式会社と取引所の仕組みに感嘆し、これこそが日本に必要な制度であると確認しました。栄一は株式会社を「合本制度」と呼び、日本への定着導入を目指して、生涯を賭けて取組むことになります。

3. 明治政府へ

立会略則 写真

帰国後、栄一は慶喜の在住する静岡に下向したものの、明治2(1869)年に明治政府へ出仕、民部省と大蔵省で租税改正などの仕事に携わり、ここでもめざましい働きを見せ、大蔵省三等出仕(大蔵大丞)まで昇進しました。そして、日本での合本法(以降、株式会社制度という)導入の為に、株式取引所設立に取り組むことになります。
ところが、栄一は、上司である井上馨の政府退職に同調し、大蔵省を辞めました。

4. 第一国立銀行の設立

第一国立銀行(国立国会図書館)写真

大蔵省を退職後、栄一は第一国立銀行(支払い資本金244万円)の総監役(のちに頭取)に迎えられました。銀行に事業の主軸をおきながら、株式会社を設立させる設立支援事業を展開しました。
栄一が設立に関与した会社には、王子製紙、七十七銀行、日本郵船、帝国ホテル、アサヒビール等500社に上ります。

5. 慈善家・教育家として

左:板橋本院での栄一 写真・右:東京高等商業学校(一橋大学)写真

栄一は、実業家の社会的責任(CSR)の先駆けとして慈善事業や教育活動を熱心に行いました。
慈善事業としては、板橋区に経済困窮者の救済を目的とした養育院(現:東京都健康長寿医療センター)を開設し、自己資金の拠出、寄付金集めなどの「マネー・スポンサー」として多大な貢献をしました。
教育界では、森有礼から管理を依頼された商法講習所の大学昇格を働きかけ、一橋大学の創立を果たしたほか、広岡浅子と同じく成瀬仁蔵が創立を進めた日本女子大学への支援を行い、昭和6(1931)年には学長に就任しています。
栄一は、数々の社会貢献事業功績をたたえ、明治33(1900)年には男爵を授与され、大正9(1920)年には子爵となりました。栄一がこの世を去るのは昭和6(1931)年、江戸時代に生まれた大経済人は91年の生涯を閉じました。