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株式大相撲番附

株式大相撲番附

株式大相撲番附

写真は、昭和23年11月25日、当時兜町にあった經濟日報社が発行した『株式大相撲番附』です。“東の横綱”は「日清紡績」820円、“西の横綱”は 「帝國人絹」(現帝人)865円となっています。番付順位は、昭和23年1月6日発会から11月10日までの間の最高株価を基準に編成されたもので、“花形株”、“出世”といった力士も登場しています。「行司」は番付の中央で「證券で貯蓄だ、利殖だ、再建だ 今日からは僕も株主明るい職場」と仕切っています。この『株式大相撲番附』、一体どういう目的で作られたのでしょうか。

戦後、証券の売買は、窮乏の中で日々の生活に追われた人々が、手持ち証券の換金を急いだことから自然発生的に始まりました。そして、肝心の取引所が閉鎖状態のため、売買の引合いに応じきれなくなった証券会社は、取引所近辺の路上や焼け残った証券会社の地下室などの特定の場所に集まるようになり、その後、才取人を中心とする「集団売買」へと組織化が図られ、一定の時間・場所で売買が執行されるようになります。

この「集団売買」は、東京では昭和20年12月17日、実栄会事務所(現在の日証館2階)で開始され、その後、日本証券取引所(当時)の市場代理人休憩室に移されますが、取引所建物の使用は連合国最高司令官総司令部(GHQ)の横槍が入るとの懸念から、同年5月、再び日証館での売買となった経緯があります。

当時、紡績・食品等の“平和株”を中心に活発な売買が展開されましたが、こうした背景には、財閥解体などの経済の民主化政策の影響も無視できません。証券の大衆化を促進するため、日比谷公会堂で“株式祭”を催したり、「福引、当りくじ、歌手を人寄せに利用したこともあり、特に街頭に進出し、トラックの上から大衆に呼びかけた場合など、まず歌手を先に立てて、人が集まったところで“投資”を説いた」(兜町盛衰記)など大々的なPR活動が行われたようです。