沿革

東京証券取引所の所在地である「兜町」は、東京あるいは日本の証券市場、または証券業界を示す言葉として使われることが多く、アメリカで言うところの「ウォール街」、イギリスで言うところの「シティ」と同様の使われ方をしています。

さて、この「兜町」の歴史について触れてみたいと思います。

江戸時代のころの兜町

江戸時代以前の兜町付近は、一面に茅が生い茂った汐入りの沼地でした。

関ヶ原の合戦で大勝した徳川家康は江戸城築城を計画しましたが、そのために、建築資材を乗せた大船の船着場や用材置場などの広大な土地が必要でした。そこで、家康は全国の武将に命じて、江戸神田山(駿河台)の一部を切り崩し、江戸湾の埋め立て工事を行いました。

現在の兜町界隈は、このようにして江戸時代の初めに埋立てによって誕生しました。

その後、江戸城に近い兜町界隈には、徳川家と親密な大名などの屋敷が配置されました。現在の東京証券取引所あたりには、牧野讃岐守の広大な上屋敷があって、その庭園は江戸名園のひとつに数えられていました。

明治のころの兜町

明治4年9月、明治維新の論功行賞として兜町界隈の土地が三井組等に下賜され、「兜町」と命名されました。この町名は、江戸時代に牧野邸内にあった兜塚にちなんでつけられたと言われています(兜塚については、「兜神社縁起」をご参照ください。)。

維新政府は、殖産興業策のひとつとして株式会社制度の導入を図る一方、封建遺制を整理するため新・旧公債、秩序公債などを発行しました。これらの公債の売買がしだいに活発になるにつれて、取引機関設立の機運が高まり、政府は明治11年5月4日、株式取引所条例を制定しました。そして、同月10日、東京実業界の有力者であった渋沢栄一、三井養之助らは、条例に基づく株式取引所の設立を出願し、同月15日に大蔵卿大隈重信の免許を受け、ここに株式会社組織の東京株式取引所が誕生し、6月1日から営業を開始しました。

その後、政府や渋沢らの民間人によって、商業上の重要な会社や近代的な株式会社がこの地に設立され、兜町は、ビジネス・センターとして、その装いを一変しました。

大正のころの兜町

大正のころ、兜町には電話は珍しく、取引所と株式仲買店との商い注文などの連絡は、着物姿の小僧さんが走ったりして行われていました。

しかし、その和服姿も、日本橋界隈の商店街に先駆けて、大正10年ころ、「立会場に出入りする者は洋服に限る。」とされてから、次第に洋服姿に変わっていきました。

関東大震災により、東京株式取引所の建物も含めて、兜町一帯が焼野原となった後、大正15年ころから耐震耐火の建物がつぎつぎに建てられると、兜町はすっかり近代的な街並みに生まれ変わりました。

昭和初期、戦中・戦後の兜町

昭和に入って間もなく、世界的な大不況の波に見舞われ、わが国の経済は長期の不況に陥り、兜町も度重なる暴落のため、沈滞の度を深めました。

その後、昭和12年の満州事変を契機に、わが国経済は戦時体制に移行し、証券市場も急速に統制色が濃くなってきました。昭和18年6月には、全国11の株式取引所を統合して、新たに半官半民の営団組織「日本証券取引所」が設立されました。戦局が悪化するにつれて、兜町も急速に活気を失っていきました。

戦後、GHQ(連合軍総司令部)は取引所の再開を禁止しましたが、兜町の一角では、証券業者の半ば組織的な集団売買が開始され、兜町はいちはやく’証券の町’としてよみがえりました。

一方、財閥の解体等によって凍結された大量の株式が国民に放出されるとともに、証券知識の普及を図るため全国的な証券民主化運動が行われました。そして、昭和23年4月、投資者保護を基本理念とする新しい証券取引法が制定され、翌24年4月1日、待望の会員組織による東京証券取引所が誕生、5月16日から取引が再開されました。